遣わされる者としての生き方
その日、…弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って…その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは…彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、…彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」ヨハネの福音書20章19節~23節
イエスのご生涯において、一番大きな出来事は、言うまでもなく、十字架と復活の出来事です。二つのことですが、一枚のコインの表と裏のようなものです。イエスは、自らの十字架の死により人間の罪を贖い、私たちに永遠の命を与え、その保証として、死の力を打ち破ってよみがえって下さいました。私たちが、十字架と復活の御業をなされたイエス・キリストを信じるなら、この地上の人生が死で終わっても、死では終わらない、死の向こう側の永遠の命の世界が約束されているのです。そして、私たちの生きざまや命の質そのものも変えられていきます。
今日開いた聖書は、イエスがよみがえられた日、弟子たちに現われた時の物語です。復活されたイエスの御言葉から、私たちの生活がどのように変わるのか、学ぶことができます。二つのことを押さえておきます。
1.復活の主は、私たちを遣わされる
十字架と復活の御業を成し遂げる前のイエスと共にいた弟子たちは、ただイエスの後をついて回るだけの弟子たちでした。時々、二人一組で遣わされていましたが、十分に自立することもできず、どちらかというと、へまをしでかし、イエスからしばしば叱られ、「どうして悟らないのか。」と言われていました。イエスが本当に期待するような業ができなかったし、彼らの信仰はまだまだ霊的な目が閉ざされていました。
ところが、十字架の死の後、復活されたイエスに出会った弟子たちは、イエスに語りかけられます。「父なる神が私を遣わされたように、今度は、わたしがあなたがたを遣わします。」
復活のイエスのメッセージは、どの福音書においても共通しています。マルコの福音書では、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」マタイの福音書では、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」ルカの福音書では、「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」神の御業を証しするために、あなたがたは出て行きなさい、というのです。
あなたの信仰は、どの位置に立っていますか。イエスが優しい救いの言葉をかけてくれ、心に平安が与えられるから、イエスに祈れば病が癒されるから、ただ、イエスの後をついて回っているだけですか。それとも、イエスに遣わされ期待される使徒として、出て行く準備や働きが始まっていますか。これは、非常に重要なことです。私たちの罪を十字架で贖い、永遠の命を与え、まことの救いと平安を約束して下さった復活の主イエスと出会い、本物のしもべとして出て行くことができるかどうかが問われています。私たちは主から遣わされて行くひとりびとりであることを心から意識する者でありたいのです。
2.救いと滅びの決定権
私たちは、遣わされて何をするのでしょうか。イエスが救い主であることを語る。もちろんそうです。でも、私たちは単なるメッセンジャー・ボーイではありません。驚くべきことに、私たちが出かけて行って、誰かの罪を赦すならば、その罪は、神の御心においても取り除かれ、赦されていくのです。あなたが、「そんな汚い生き方で。」と思いながら、「その人の人生だから。」と言って、誰かの罪をほったらかしにするなら、その罪は神の御前でも確定されてしまい、その人の魂は滅びるのです。
私たちが遣わされて行く時に、私たちの証しやキリストの御名によって語る言葉を軽んじてはいけません。私たちが、「あなたの罪は赦され、神の子どもとして新しい人生を歩むことができます。」と語る時、それは単なる伝言ではなくて、救いそのものを伝え、運ぶことになるのです。主から遣わされるあなたの言葉の中には、人の罪を赦したり、罪に定めたり、救いや滅びを決定する権威までもが与えられていることを知りましょう。
復活の主は、私たちひとりひとりをイエスの代理として、遣わして下さるのです。クリスチャンの歴史は、遣わされた者の歴史でした。使徒や宣教師が世界中に出て行き、命がけで福音を宣べ伝え、今、私たちも自然に信じることができています。私たちの時代で、遣わされる者としての使命をやめてはなりません。