神の臨在の中から遣わされる

…私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。…セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」イザヤ書6章1節~8節

今日開いた聖書は、イザヤが神の召命を受け、預言者としての働きが始まった時の物語です。イザヤが神によって立てられ、預言者として遣わされて行く時に、どういう経験をしたのでしょうか。彼は信仰生活の中で、まざまざと神の臨在に触れる体験し、その中から神によって出て行ったのです。
私たちは、普段、「神様、神様。」と祈っていても、いつの間にか、本当の神の偉大さや恵みの深さを忘れてしまいがちです。あなたの信じている神を、神と呼ばれるにふさわしいフルサイズの神に、ちゃんと拡大しようではありませんか。信仰の持ち方を整えるために、三つのことを共に学びたいのです。

1.崇高な輝き、偉大さにあふれる神

 
 イザヤは、「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」と記しています。神の御衣のすそが神殿全体に満ちあふれ、大きな六つの翼のある、天使のような存在であるテラフィムが、宙を舞っていました。二つの翼で顔を覆い、二つの翼で両足を覆い、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫びながら、二つの翼で飛んでいたのです。声が響く度に、イザヤが立っていた土台が揺れ動き、幻の中の神殿は煙で満ちていました。
その時イザヤは、「もう、だめだ。神様は偉大すぎて、私はすぐに死んでしまう。」と、威光と尊厳に満ちた神の前に、自分は存在することさえ赦されない汚い人間であると、はっきり感じたのでした。
今から2,800年前の預言者が、神の顕現を精一杯、描写しているのですが、イザヤが目の当たりにし、全身で感じた神の臨在の力強さを、私たちはしっかりと受け止めたいのです。私たちが聖書の証言を通して立ち返らなければならないのは、小さな民話や昔話の中に出てくる、人が作った偶像の神ではなく、天地宇宙の創造主、命の与え主である、ただおひとりのまことの神なのです。私たちの側から、私たちがどれほど立派だからと言って近づくことのかなわない、聖なる完璧な神がおられることを知りましょう。

2.私たちに接し、清めて下さる神

 イザヤが、「私は、死んでしまう。」と言った後、どうなったでしょうか。霊的な存在であるセラフィムのひとりが、神の祭壇で燃えさかっていた炭を一つ持って飛んで来て、イザヤのくちびるに当て、「これが、あなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は清められた。」と言ったのです。
 「私は、嘘八百ついて、意識的にも無意識的にも、人を何度も騙し、ごまかし、怒りを抱いたり、責任転嫁して逃げたり、欲深い者です。そんな私が、人間を超越した完璧な神様に近づくなんてできません。」でも、そんな私たちに対して、驚くべきことに、神の側から接して下さるのです。その時、私たちは清められ、中身そのものが変わるのです。
まことの神を信じる本質的な恵みは、単に、私たちの生活ぶりが豊かになったり病気が治ったりすることではなく、魂に至るまで神の清さに与り、罪赦された者へと内側から変えられ、生きざまが変えられていくことなのです。21世紀に生きる私たちも、神の臨在を体験しましょう。

3.使命を与え、遣わして下さる神

 聖書の中の登場人物を思い出して下さい。神を知った後、ひたすら神のことを考えながら暮らしたという人はいないのです。命の与え主である神を知った時、彼らは真っ先に神に触れていただき、罪を清められて内側から新しい者へと変えられています。そして今度は、自分だけがいい人になって終わるのではなく、御心を実現するために派遣され、神の働きをゆだねられていくのです。

私たちは、すべての存在するものの根源であるまことの神と出会い、主イエスの十字架と復活の救いの道を示され、永遠の命が与えられ、自分だけが幸せで恵みを受けていればいいのではありません。本当の素晴らしさは、周りの人々に、神と共に歩む命の喜びを伝えるために、神の手足となって遣わされて行くことなのです。もしかしたら、あなたの家庭や職場の中で、あなたが最初のクリスチャンかもしれません。あなたに託されている使命は、非常に重要です。
イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命した。」と言われます。好き勝手に生きる人生から、神の御心を実行する人生へと飛躍させて下さり、使命を果たさせて下さることを感謝したいのです。