主の聖餐により繋がっている私たち

エペソ人への手紙2章19節~22節

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。


私たちはクリスチャンです。どんな状況であろうと、私たちを見捨てず片時も離れないイエス・キリストと共に歩むのが、原理原則であることを忘れてはなりません。

イエス様ならこの状況ではどうされるかと考え、また私たちに何を促されるのか、主の御心をしっかり受け止めた生き方をしたいと思います。

今、世の中は、生き方の多様性を認めることが流行のようになっています。しかし、流行なら何でもいいというわけにはいきません。

クリスチャンは、何を中心にして生きるか。罪人でどうしようもない私たちを、神様が愛してくださり、イエス様が十字架で身代わりとなって死んでくださったことによって、罪が洗いきよめられ、神の子とされ、永遠の命まで約束されました。

その神様を信じて洗礼を受けるとき、私たちはイエス様の御心に適うように歩むと誓ったのです。

今日の聖餐式礼拝で、私たちが何者で、何を中心として生きていくのか、もう一度確認してまいりましょう。

1.私たちは神の家族

聖書は、どんな者であっても教会の交わりの中に招かれているなら神の家族だと語っています。

以前は神の恵みから遠く離れ、神を知らない異邦人でしたが、今やイエスの恵みによって神の家族とされました。

6月のインターナショナルデーの礼拝では、プレイズ・フェローシップの皆さんにリードしていただきました。留学、就職、研修のために日本にやってきて、言葉はもちろん文化や生活習慣が全く違い、コミュニケーションをとるのが難しい中で、神の家族とされていることは素晴らしいと感謝しました。

そして、国籍や言語を越えた神の家族にとどまらず、あらゆる枠を越えて、罪人で、滅びるばかりだった私たち全員が、神の家族とされていることを感謝しましょう。

特に今は、コロナウイルス感染予防のための自粛で、学校や職場や友だち同士でも会えずに、関係が疎遠になっています。

そんな中で、今日聖餐式に(あずか)る者は一人も漏れることなく神の家族の一員、主にある兄弟姉妹であることを確認したいと思います。

2.イエスが人生の原点であり土台

私たちがクリスチャンとして歩むとき、自分のひらめきや宗教観や頑張りではなく、聖書のお言葉、使徒や預言者たちが命を懸けて語った神の御言葉を土台として信仰生活を歩んでいます。

間違っても、恨みや復讐が、生きる土台でないことを感謝します。世の中の流行、あこがれ、優越感や劣等感、お金、どれも人生を最後まで幸せにはしてくれません。

まして、死んだ後の世界では何の役にも立ちません。イエス・キリストを信じる信仰だけが、私たちを天国へ、永遠の命へと導いてくださるのです。

3.神の建物とされている私たち

私たちは救われ、御霊によって神の建物として、ともに建て上げられ、キリストを宿す器として成長させられています。

私たちは主にある聖なる宮であり、病がいやされ、罪ゆるされ、人々への愛があふれ、キリストのからだである教会をともに建て上げていく一人一人です。

ここに、私たちが地上で生きる価値があるのです。

アダムの時代から、人は一人で生きていくようには造られていません。教会に繋がり、祈り合い、交わり、分かち合うことを意識しながら聖餐式に与りましょう。

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