人の説明に先行するいやしの御業

ヨハネの福音書9章6節~25節、10章10節~11節

…パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」…ユダヤ人たちは、…言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」


主は今も救い主であり癒し主です。あなたが心を開きイエス様に求め祈るならば、主は力強い癒しの業を私たちのために現わされます。私たちが信じている神様は「恵みの神様」であると聖書に書かれています。天地宇宙を創り、命を与え、私たちを救い、様々な恵みを生み出してくださる神様は文字通り、恵みの根源であるお方です。この恵みの秋、今日の礼拝の中で神様からの癒しを祈り、神様からの祝福、恵み、豊かな御業を体験してまいりましょう。恵みを受け取るために信仰を働かせましょう。
この直前の聖書箇所で、生まれつき盲目の人物について、彼が盲目に生まれついたのは誰の罪のせいなのかと問う人々に対し、イエス様は「神の業が現われるためである(ヨハネ9:3)」と語られ、その盲人を癒されました。今日の箇所は、それによって引き起こされたユダヤ人たちの議論の部分です。この時から2000年経った今でも、癒されるための信仰の本質は変わりません。3つのことを確認しましょう。

1.神による癒しの事実が存在する

聖書には度々、癒しが起こったことが記されています。その癒しの御業はイエス様だけでなく、使徒や新約聖書の教会、旧約聖書の中でも神が働かれる所に起こったことが証言されています。そしてこの教会の中にも、数多くの癒しの事実があります。私たちは、神による癒しが存在するという事実を知りたいと思います。
ここで盲目が癒されていろいろな議論が起こりますが、はっきりした事実は、とにかくイエス様による劇的で特別な力により盲人の目が見えるようになったということです。私たちは、癒されるための訓練や手術、治療などの人間の方法論だけを求めるのではなく、神の力が働く事実をまず受けとめましょう。

2.知識や理屈を越える癒し

人々は、この人物が癒された原因や理由を何度も問い続けますが、面白いことに、最後まで具体的な納得できる説明は出てきません。神の御業を受けとめ癒されたいと願う時に大切なことは、人間の知識や理屈で説明がつかなくても構わないので、神の御業を現わしてくださいと祈ることです。神の御業には、私たち人間の知恵や理解では説明しきれないことがあることを受け止めておきましょう。現代の私たちは、ことの理由や原因、仕組みを全部理解することを求めるのです。しかし、神の御業は事実として起こるけれども、その理屈は、人には理解できない、説明が付かないこともしばしば起こりうるという事実を受けとめたいと思います。

3.癒しの理由はイエス様にある

この癒された人物はイエス様に出会い、イエス様の言われた通りに、シロアムの池に行って泥を洗って癒されたのです。その事実が彼らの議論に先行して起こっています。誰も理由は分かりません。たったひとつのことは、イエス様がおられたからです。イエス様ご自身が理由となり癒しが起こることを感謝しましょう。私たちは、今まで誰も体験したことのないことを求めているのではありません。旧、新約聖書から現在に至るまで、数限りない癒しが事実として起こっています。この癒しの恵みを私たちもいただきましょう。納得できる説明は要りません。イエスの御名による癒しを体験しましょう。

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