信仰による“一事が万事”

創世記25章27節~34節

…ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」…ヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」…こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。


今も生きて働いておられるイエス様の素晴らしい恵みの御業と救いを体験するために、私たちの信仰を働かせてまいりましょう。深刻な病気が見つかったり、何か困難な問題が起こったりしてから、慌てて神様にお願いする「泥縄式」ではいけません。今日の礼拝で、私たちの信仰のエンジンをきちんと動かしてまいりましょう。2月の歩みの中では、恵みと救いを体験するために、信仰の7原則①礼拝の姿勢②聖書を読む習慣③祈りの信仰④献金の習慣⑤奉仕のわざ⑥伝道・証し⑦互いに愛し合う交わりを確認しましょう。
今日の聖書の個所は、イサクの双子の息子ヤコブとエサウの物語です。エサウは長男で、狩猟をする野の人でした。イサクは穏やかな人で、天幕に住んでいました。この対照的な双子に、重大かつ決定的な出来事が起こります。この時から、エサウの長男としてのすべての恵みが弟ヤコブへと流れていくことになるのでした。このエピソードから、私たちが気を付けなければならないことを学びましょう。

1.生き方を現す「小さな出来事」

兄のエサウは、お腹がすいて飢え死にしそうだからと、簡単にヤコブに長子の権利を豆の煮物と引き換えてしまいました。たかが一言ですが、エサウの人生を狂わせる一言になります。ことわざにもあるように、「一事が万事」です。単に一杯の豆の煮物の話ではなく、エサウは、神様から与えられた長子の特別な恵みを軽んじたのでした。
たった一言の言葉や小さな行動が、私たちの生き様を示すものになります。気を付けましょう。愚痴や文句を言うのではなく、小さなことでも神様に感謝し、喜ぶ者になりましょう。

2.「今だけ」では済まされない

32節でエサウは「今の私に何になろう」と言いました。しかし、今だけでは済まされないのです。エサウはこの後、長子の恵みを失い続けることになり、マラキ書、ローマ書、ヘブル書では、エサウは長子の権利を豆の煮物の代わりに売ったと、不名誉な記事が残っています。今だけのことだからといい加減なことをしていると、あなたの全部をダメにしかねません。
私たちはこの一年、主イエス・キリストによって恵まれ、救いを体験する歩みをしたいならば、小さな毎日の出来事の中に信仰を具体化してまいりましょう。今できることをしましょう。献金しない今で終わるのではなく、今持っているものをささげましょう。まわりの人に温かい言葉で接し、愛し励まし合いましょう。私たちの信仰生活も「一事が万事」です。教会に来ている時だけでなく、プライベートな生活の中でも、イエス様に感謝し、聖書のお言葉に触れて祈り、愛し、真心こめてささげ、神様に祝福される「一事が万事」でありたいと思います。
ヤコブはずる賢く、エサウは、あっさりとした性格で付き合いやすかったかもしれません。しかし不思議ですが、神様はヤコブを愛されたと聖書にあります。なぜでしょう。神様を熱心に求め、愛することにおいては、ヤコブは常に「一事が万事」で、その姿勢は変わりませんでした。私たちも、人生のどんな小さな部分を切り取った時でも、そこに生き生きとした信仰が働いていますように。