私を遣わしてください
…私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。…私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると…セラフィムのひとりが…私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
今、万代牧師はインドとマレーシアに遣わされています。新しい海外伝道のために、ぜひ続けてお祈りください。そして、万代牧師だけではなく、私たちもみな、神様から遣わされた者として立ち上がることを、主は求めておられます。罪と争いに満ちたこの世界を変えるためです。そのために、今日は、神に遣わされ用いられた預言者イザヤの召命の記事から、4つの御言葉に注目したいと思います。
自分の罪と汚れを認め、「もうだめだ」と言った、ここから預言者イザヤの物語は始まるのです。「自分には罪はない」というからだめなのです。罪を認めて、「自分はだめだ」とへりくだればいいのです。だめだからこそ、神様に頼るのです。聖書の中の多くの信仰者たちも、高ぶりを砕かれ、へりくだり、神に用いられたのです。
2.「あなたの罪も贖われた」
しかし、やはり、だめなままでは、だめなのです。自分の力ではなく、神の力に触れ、「私の罪は贖われた! 私は赦され、救われた!」という喜びと感謝、初めの愛を忘れないことです。それが私たちの大きな力となるのです。
3.「ここに、私がおります」
「ここに」は、6節の「見よ」と同じ言葉で、「私を見てください」という意味です。この直前まで、神を見ることも、神に見られることも、汚れた自分には無理だ、だめだと思い、神から自分を隠そうとしていたイザヤは変えられました! 神様から隠れたままでは何も始まりません。私たちも神様に隠している心があるなら、イザヤのように、神の力に触れて、「主よ、ご覧ください、ここに私がおります」と言える者に変えられましょう。見ないでくださいと言って、神様を拒むのではなく、見てくださいと言って、神様に介入していただきましょう。イザヤと同時代のヒゼキヤ王も、そのように祈って、アッシリヤに対する奇跡的な勝利を体験したのです。
4.「私を遣わしてください」
私たちは、神に遣わされた者です。ヨセフは、兄たちに妬まれ、奴隷としてエジプトに売られましたが、いつも主が共におられ、「私をここに遣わした(シャラク)のは…神です」と知り、神に遣わされた者としてエジプトの地で大きな働きをしたのです。アダムとエバはエデンの園から「追放された(シャラク)」、しかし、それは「遣わされた」ことでもあったのです。人は、罪と苦しみの世界に、神から遣わされた者なのです。何のために? 歌うためです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」、神様、ありがとうございます、と讃美するためです。「苦しむ(アーナー)」には「歌う」という意味があります。神様の計画の目的は、「すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」。そのために、イエス様はこの世界に遣わされたのです。そして、「わたしもあなたがたを遣わします」と言われるのです。今も主は「だれを遣わそう」と問いかけておられます。それは、だれでしょう? 「私を遣わしてください」と答える者です。それが、あなたでありますように。私たちでありますように!