初めから示されている主の約束に信頼

列王記第二5章1節~14節

アラムの王の将軍ナアマンは、…勇士ではあったが、らい病にかかっていた。…彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」…神の人エリシャは、…王のもとに人をやって言った。「…彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」…ヨルダン川に七たび身を浸した。すると…幼子のからだのようになり、きよくなった。


今日の癒しの礼拝でも、神様の恵みをしっかりと求めてまいりましょう。この教会には神様が働いてくださっている事は確かですので、喜び合いましょう。

一週間前は、去年に引き続きインターナショナルデーとして特別な合同礼拝の時を持ちました。世界中から松山に来られた兄弟姉妹と共に神様をほめたたえ、礼拝し、賛美できる国際色豊かな教会として建てあげられている事を感謝します。

コロナ禍で困難な事があったとしても、私たちはクリスチャンらしく信仰を働かせて神様から恵みをいただき、この試練の中でも力強く歩んでまいりましょう。

祈りの中で神様が働く時には、人間の思い込みや常識を超えるような聖霊の働きによって、神による恵みが現わされます。そして、癒しの恵みは成就します。皆さんと共にその信仰をいただきたいと思い、今日はナアマンの物語を取り上げました。

イスラエルの敵国アラムには、王の将軍であり武勇の誉れ高いナアマンという人物がいました。しかし彼の鎧の下は、らい病で覆われていました。この当時、らい病にかかった人は社会から隔絶されるような厳しい取り扱いを受けなければなりませんでした。

ナアマンの病を知っている人は少数でしたが、イスラエルから連れて来られた奴隷の少女が、ナアマンの妻に「サマリヤの神の人の所へ行けば、らい病が治るのに」と発した言葉をきっかけに、ナアマンはアラムの国王からの紹介状とおびただしい贈り物を持ってイスラエルの王の所に行きました。

アラムの王からの手紙を見たイスラエルの王は、言いがかりをつけて戦争を仕掛けるつもりだと誤解して動揺しますが、それを聞いたエリシャが、ナアマンを自分の所によこすよう伝えます。

しかしエリシャは、顔も見せず、ナアマンに使いをやっただけでした。直接エリシャから癒してもらう事を期待していたナアマンは激怒して、帰途につこうとしましたが、彼のしもべに諭され、思いとどまったナアマンはエリシャの言った通りにした結果、体がきよめられたのでした。

この物語から、二つの事を学びましょう。

1.たらい回しをやめる

ナアマンは、癒されるまであちらこちらに行っています。エリシャの所に行ったら治ると言われて出かけましたが、まず奥さんから聞き、アラムの王の所に行き、手紙を書いてもらい、贈り物を準備し、イスラエルの王の所に行き、いらぬ誤解を招き…。

最初から、その少女に詳しく聞いてエリシャの所に行けばよかったのです。クリスチャンである私たちは、病の癒しのために、たらい回しのような事はやめにしましょう。私たちの命、元気は神様から与えられているのですから、神の所に行けばよいのです。

2.最初に神様に祈る

私たちは、自分の病気に対してあれこれと治療法や病院を比較して選びますが、神様の恵みで癒されたいと願う信仰が失われていては残念です。命の与え主であり天地宇宙の創り主である神様にとって不可能な事は一つもありません。神様の恵みは、他のものと比較する必要はないのです。

私たちは、まず神様に祈るところからスタートしましょう。今、聖霊の時代を生きる私たちは、主に祈り求めれば命や癒しをいただく事ができます。病気の癒しも、クリスチャンらしく神様に祈り求めましょう。

3.イエスと共に死に、イエスと共に生きる

罪から逃げられない私たちは、まずイエス様と共に十字架に死んで、イエス様と共によみがえらせていただくことで、罪がきよめられた者として神の前に立つことができるのです。

そして、神の子としての権利を与えられ、永遠のいのちまでも約束されました。だから、どんな困難や問題や世の中の荒波が襲ってきても大丈夫! なぜなら、イエス様に命を委ね救われた者は、イエス様の恵みをいただいて勝利することができるからです。

幸せな人生を送りたいと誰もが願っています。それならば、真っ先にイエス様の救いをいただきましょう。イエス様の救いと永遠の命の約束がなければ、罪と裁きと呪いから抜け出せません。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(36節)。

イエス・キリストによって救われていることを感謝しましょう。

4.朝の9時の体験

ペテロは、朝の9時だから酔っているのではないと言いました。人々に、酔っているように見えたのはなぜでしょう。聖霊を受けた弟子たちが皆、リアルな喜びと躍動感に溢れ、陽気に生き生きとしていたからでしょう。

主の御霊に満たされて、私たちもこのような体験をしたいのです。これを2000年前の出来事として片付けるのではなく、革命的なペテロたちの霊的体験を私たちも自分のものとして体験することができるように祈っていこうではありませんか。

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