主キリストの福音による神の家族!

ガラテヤ人への手紙3章23節~29節

…律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。…信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。…


今日はインターナショナルデーです。松山福音センターに集う世界中の兄弟姉妹たちと共に国籍、言語、文化、肌の色の違いを超えて、お互いの個性を受けとめつつ、キリストによって救われた私たちがキリストのからだとして一つであり、神の家族であることを感謝したいと思います。

28節にも「キリスト・イエスにあって、一つだからです」とあります。そのことをはっきりと知ることができるようにしていただきましょう。私たちは今も生きて働いておられるまことの神様を信じている喜びを体験したいと思います。

今日の礼拝も天気が守られ感謝します。梅雨の時期、雨を感じたら「恵みの雨」と覚えましょう。作物を成長させるための雨だけでなく、私たちの実生活を潤す恵みの雨が注がれていることを思い描き、信仰を持って祈り求めましょう。私たちの必要は満たされますし、神様は私たちの心を見ておられます。

時に、苦手、できないと思い込んでしまい、先入観や思い込みから抜け出せないなと感じることはありませんか。私たちの教会には、インターナショナルデーなどで、世界中の多くの友人をつくる機会があるのに、自らの小さな枠にとどまってしまうのは実にもったいないことです。

神の恵みは、いつも豊かに与えられているのに、自ら恵みの可能性を制限しては残念です。神様の恵みの素晴らしさと、かけがえのない人々を与えられていることを感謝しましょう。

今日の聖書箇所より、イエス様を信じることにより、神様が私たちを大きな恵みへと導き入れてくださることを2つのポイントから知りたいと思います。

1.福音によって救われた

イエス様が現れる前は、律法という掟を与えられていて、その掟を守る以外に神様に近づく方法はないと教えられていました。

しかし人間は、心の奥底から罪人であったために、誰一人として律法を完全に守ることができず、神のもとに導かれることはなかったのでした。

神様はそんな私たちのために、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちの罪、汚れの身代わりとなってイエス様が十字架に架かり死んでくださいました。

それにより、私たちの罪は清められ、罪から贖い出されたのです。イエス様を信じるならば、福音によって救われます。神様の恵みの中に導き入れられる喜びを体験し、永遠の命が与えられていること感謝しましょう。

2.キリストを着る

私たちは、それぞれの個性や特徴があります。最近では、その多様性ばかりが取り沙汰されますが、「キリストをその身に着た」のなら、イエス様の命や愛で覆われて、キリスト・イエスによって私たちは一つとなるのです。

ここに集う兄弟姉妹が神の民となるなら、ありとあらゆる恵みの相続人です。この世においても霊の世界においても神から約束されている恵みを受けることができるのです。

かしらはキリストであって、キリストの御旨にかなうように、私たちは一つになってキリストの身体の各器官として祝福されていることを喜びましょう。

それぞれの国籍や文化を感謝すると同時に、それを超える神の愛によって、私たちは一つとされていることを感謝し、この教会での交わりをいよいよ広く深くしてまいりましょう。

3.イエスと共に死に、イエスと共に生きる

罪から逃げられない私たちは、まずイエス様と共に十字架に死んで、イエス様と共によみがえらせていただくことで、罪がきよめられた者として神の前に立つことができるのです。

そして、神の子としての権利を与えられ、永遠のいのちまでも約束されました。だから、どんな困難や問題や世の中の荒波が襲ってきても大丈夫! なぜなら、イエス様に命を委ね救われた者は、イエス様の恵みをいただいて勝利することができるからです。

幸せな人生を送りたいと誰もが願っています。それならば、真っ先にイエス様の救いをいただきましょう。イエス様の救いと永遠の命の約束がなければ、罪と裁きと呪いから抜け出せません。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(36節)。

イエス・キリストによって救われていることを感謝しましょう。

4.朝の9時の体験

ペテロは、朝の9時だから酔っているのではないと言いました。人々に、酔っているように見えたのはなぜでしょう。聖霊を受けた弟子たちが皆、リアルな喜びと躍動感に溢れ、陽気に生き生きとしていたからでしょう。

主の御霊に満たされて、私たちもこのような体験をしたいのです。これを2000年前の出来事として片付けるのではなく、革命的なペテロたちの霊的体験を私たちも自分のものとして体験することができるように祈っていこうではありませんか。

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