幸いな人として生きる
マタイの福音書6章27節、ルカの福音書19章1節~10節
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
…彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」…
今日最初に読んだ箇所は、「山上の垂訓」と言われる、神様を信じて神様に仕え、そして神様と共に生きることがいったいどういうことなのかという教えがまとめられている中の1節です。そして後に読んだ箇所は、ルカの福音書にだけ記されている取税人ザアカイの救いの出来事です。
この2箇所では、ギリシャ語の「エリキア」という同じ言葉が使われています。「エリキア」には、寿命、身長、仕事に適した年齢などの意味があります。マタイの福音書では「自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」の「いのち」と訳され、ルカの福音書では「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」の「背」と訳されています。
今日は2つの箇所から、幸いな人生を送るための3つのポイントを確認しましょう。
1.神様の思(おぼ)し召しを受けとめる心を持つ
神様からの思し召しとは、天の定めであり、人にはどうすることもできないものです。寿命や身長など、「エリキア」が訳される意味の共通点は、天の定めであり、人にはどうすることもできないという点です。
生活様式の改善や医療の充実により、私たちは多少の長生きができるかもしれません。しかし、自らの命が明日どうなるのか、私たちにはわかりません。そこには神様の思し召しが存在するのです。
私たちは人生において、戦うべきことが確かにあります。しかし、神様の思し召しをまず受け止めることが大切です。それがたとえ災難、病気、死であってもです。
受けとめられないことで私たちは不安になり、人生を儚んでしまいます。神様の思し召しを受けとめる心を持ちましょう。
2.主は、ありのままの私に宿るお方
ザアカイは、自分の身長の低さにコンプレックスを持ち、自分を馬鹿にする人たちを見返すために取税人となったのでしょう。
金持ちになったことで逆に人々を見下し、一生懸命虚勢を張って生きていました。そんなザアカイは、イエス様を見物に行くのです。
イエス様は「そこから急いで降りて来なさい」とおっしゃいました。急いで降りなくてはいけないので、ザアカイは取り繕うこともできず、ありのままの姿でイエス様の前に出ました。
イエス様は、虚勢を張って背伸びをしている人の元ではなく、ありのままでいる人の心を宿とされるお方です。格好をつけて虚勢を張る信仰の歩みに、幸せはないのです。
3.主に見つけられていることに気づく
救いとは、何でしょう。ザアカイの決心は救いの証しと言えますが、行動が救いの条件ではありません。詩篇119篇の作者は、「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください(176節)」と歌いました。
作者は、神様の道をどんなに探し求めても、自分ではその道にたどり着くことができないのだと悟っています。神様に見つけてもらうことに、救いがあり、幸せがあるのです。
ザアカイは、イエス様の見物に行っただけなのかもしれません。ですが、イエス様に声をかけられ、イエス様が自分を見つけてくださったことに気づきました。見つけられて、彼は救われたのです。
今日、私たちもいろいろな思いを持って教会に集いました。主は、そんな私たちを見つけてくださっています。