これこそ神である主の宮だ
歴代誌第一22章1節~2節
そこで、ダビデは言った。「これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。」そして、ダビデは命じて、イスラエルの地にいる在留異国人を召集し、神の宮を建てるため石材を切り出す石切り工を任命した。
ダビデは罪を犯しました。人口調査を行い、神ではなく戦士の数に頼り、神の民を自分の民のように扱ってしまいました。しかし、ダビデは悔い改め、主に告げられたとおり、エブス人オルナンの土地を購入し、全焼のいけにえをささげます。すると、天から火が下って、いけにえを焼き尽くしたのです。
その時、ダビデは叫んだのです、「これこそ、神である主の宮だ」。そこに、神殿が建てられるのです。
これこそ神の宮だと言える、それはどのような所なのでしょうか?
1.天と地がつながる所
神の宮、教会とは、天と地がつながる所です。四面楚歌、八方ふさがりと思える時も、天は開いています!天と地、神と人がつながり、神からの答えが与えられます。ですから私たちは「神の宮」教会に集うのです。信仰は、神に結びつくことにあります。神と私たちが結びつく場所、教会はそういう所なのです。神と離れている状態が罪なのです。しかし、教会は天と地が繋がる所であり、神と人とのつながりを妨げる罪が取り除かれ、清められ赦される場所なのです。私たちは日々罪を犯してしまう弱い存在です。だからこそ、神の宮、教会に集うのです!
2.神と出会う所
赦されるとは、赦して下さる神と出会うことです。癒される、救われるとは、癒し主、救い主なる神と出会うことです。神の宮、教会は神と出会う所です。そして出会ったら必ず変えられます。何の理由もないのに不安で心配な時があります。しかし、教会に来て神と出会うと、変わります。なんだかうれしくてたまらない! 恐れや暗闇が消え去るのは、愛と光である神様と出会うからです。神と出会う所、教会は天国に一番近い所です。私たちの人生は最高の喜びに向かって進んでいるのです。だから、毎日がうれしくてたまらないのです。神の宮、教会に来るたびに、それを思い出すのです。全てを完成して下さった神との出会いの中で、真の安息、平安を得るのです。
3.全てをささげられる所
ダビデが「これこそ、神である主の宮だ」と叫んだその場所は、実はモリヤの山上でした(Ⅱ歴代誌3:1)。アブラハムが、愛する一人子イサクを神にささげようとした所です。最も手放したくないものを手放す、それが神を第一にすること、神を礼拝することです。握りしめている手を開いて、手放し、明け渡す時、初めて受けることができるのです。それが神の恵みを受ける鍵です。本当の意味で神を信頼しているかが問われています。私たちの人生が不完全燃焼で終わらないのは、全てをささげても惜しくない、そういう方に出会えたからなのです! それでも、ささげきれない弱さのある私たちです。しかし、主イエスは、そんな私たちのために、いのちも全て、ささげてくださったのです。この方こそ、喜んで、全てを明け渡し、お任せできる方です。そして、「ささげなさい」ということは、ささげる私たちの全てを「受け止めて下さる」という恵みでもあるのです。
神の宮、教会は、天と地がつながる所、神と出会う場所、全てをささげられる所です。そこで、私たちは変えられるのです。だから、私たちは喜び、感謝にあふれ、神の宮、教会に通い続けるのです。