世の光であるキリストと共にある癒し!

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」…
                                 ヨハネの福音書9章1節~7節

今日は、癒しの礼拝です。あなたの心が疲れていても、病気で弱っていても主はあなたを元気に立ち上がらせて下さいます。人生は、空想ではなく現実ですから、逆境のない人生などあり得ません。その中で神に目を向ける時、無駄なことはひとつもありません。今日の箇所は、生まれつきの盲人を癒されたところです。生まれつきというのは、回復の見込みがなく、一番悲しい状況でした。イエスが盲人をじっとご覧になっているので弟子たちは不思議に思い、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねます。当時、目が見えない、身体が不自由、病気であるというのは、不幸なことであり、またそれは、神の呪い、神の罰であると考えられていたのです。これは何もユダヤだけではなく、日本でも時々耳にする言葉です。不幸なことが起きると、原因探しをし、誰かのせいにし、結局は空しいだけです。しかしイエスは、本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない、ただ神の御業が彼の上に現われるためである、と新しい解釈を創造され、盲人の目を開かれました。イエスが来られることによって、不幸だと思われた事柄が、光を放つようになったのです。私たちの人生も、苦しみや悲しみがあります。それは、あなたの失敗でも、誰かのせいでもありません。イエスが共にいて下さり、あなたの人生に神の恵みが現わされて、大逆転が起こり、神の栄光を現わすのだと宣言して下さっています。このことを、感謝しようではありませんか。

1.クリスチャン意識にスイッチON!

今朝、教会に来るのも精一杯という方もおられるでしょう。しかし、弱さを抱えているからこそ、神の御業をいただくことができます。私たちの神は、天地宇宙を造られた創造主です。無限の可能性の中におられるその主が、神の御業を現わすと宣言して下さいました。私の病に、癒しの業が現われると信じましょう。今、あなたの意識を真の信仰者としての意識に切り替えましょう。そして、弱い私に神の御業をお与え下さいと、心から祈ろうではありませんか。

2.信仰の行動をもって、恵みに与ろう!

イエスは、泥を作って目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、彼は行って洗い、見えるようになりました。神の約束を信じ、それを実行すれば良いのです。聞くだけで実行しなければ、その恩恵に浴することはできません。私たちの教会は、神の癒しを信じます。もちろん、医学の力も神が与えて下さった大きな恵みですから、受け止めます。しかし、神ご自身の恵みを忘れません。命の与え主が、私たちの命に触れて下さり、私の体内に予想しないことを起こして下さるのです。癒され、命が増し加えられことを体験していこうではありませんか。
信仰の行動とは、イエスの御名によって祈ることです。盲人がシロアムの池に行って目を洗ったように、イエスの御名の恵み、権威を信じて祈ろうではありませんか。信仰の行動をもって主の恵みに与りましょう。主は、「わたしは世の光! わたしがいる間にわたしの恵みを受け止めなさい」と、あなたの前に立っていて下さいます。今、聖霊の働きによって、世の終わりまで共にいると約束された主は、私たちに命を注いで下さっています。