教会に集う私たちのものであるいやし

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。…あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。…あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。…エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。…    ヤコブの手紙5章13節~18節

今日の箇所は、いやしをテーマとしています。信仰をもってイエスに祈るならば、医者や薬や自分の力とは違う、命の与え主である神から明確ないやしが与えられるというのです。
一言で言えば、いやしは私たちのものです。主イエスに仕える私たちに与えられている恵みなのです。三つのことを学んで、いやしを自分のものとしましょう。

1.いやしは、教会の働きの中で必ず起こる

私たちは、クリスチャンとして歩んでいれば、今日も神が祈りに答えて下さった、兄弟姉妹と素晴らしい時を過ごすことができたと、喜ばしいことが日常生活のあらゆる場面で起こります。
一方、クリスチャンでも苦しむこともあります。乗り越えられないような試練に遭ったり、家族のことや人間関係で悩むことも、よくあることです。
「あなたがたのうちに病気の人がいますか。」と、聖書は語ります。どんなに元気な人でも疲れることもあれば、いつ体調を崩さないとも限りません。夏の終わりで夏バテしている人もいるでしょう。病むことも普通のことです。
苦しんでいる人は、くよくよ悩み続けるのではなく、「祈りなさい」、喜び楽しんでいる人は、「思いきり、神をほめたたえなさい」と聖書は語ります。祈り、賛美することは、ごく自然なことではありませんか。同様に、病のいやしのために、「祈りなさい」とあります。いつものように祈りなさい、ということです。
いやしは特殊なものではなく、イエスが教会に聖霊の命を与えられた時から、教会の中に常に存在する神からの恵みです。主イエスを信じている教会には、いやしの祝福は当たり前のように存在します。

2.いやしは、互いに祈り合う時に起こる

教会は、ひとりでぽつんと座っている場所ではありません。キリストの御体なる教会に招き入れられた時、私たちはキリストの御体のかけがえのない一部分を担うことになります。そして、結び合わされ、ひとつとなっていくのです。互いに励まし、助け合うのが当然のことです。
今、世の中の世相は、みんながバラバラになる方向に傾いています。会社や学校の中でも、意思表示がなかなかできず、友人同士の関係も希薄で、家族もバラバラ。人が横にいると、うっとうしい。人と接すると、あんなことを言われて、私は傷ついたと、人とうまく関われません。
でも、聖書が教えているのは、私たちひとりひとりが好き勝手な人生を生きればいいというのではなく、ひとつに結ばれ合うことです。イエスはおっしゃいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」だから、私たちは交わりを大切にし、喜び合います。そして、忘れてはならないのは、互いに祈り合うことです。
病む人を回復させるのは、牧師の祈りだけではありません。私たちが主の御前にとりなして祈る時、その祈りが信仰による祈りとなり、病む人を回復させます。それは、主が今もいやして下さるからに他なりません。

3.いやしは、あなたを通して起こされる

エリヤが祈ると、三年半の間、雨さえ降らず、再び祈ると、いきなり大雨になりました。エリヤが祈ると、天から火が降って来て、備えられたいけにえを焼き尽くし、死人さえ生き返ったのです。旧約聖書の最強の預言者エリヤを、ヤコブは、私たちと同じような人であったと記しています。逆に言えば、私たちもエリヤと同じような人であり、私たちの祈りも、主に受け止められるのです。ありのままの弱さをかかえた私たちが祈る時、人が奇跡と呼ぶような、神の御力が私たちの信仰を通して働くのです。
私が自分でいやしを祈り、祈りが答えられた明確な経験をしたのは、小6の時です。夕拝に出ていて、座っていられないほど気分が悪くなり、腕に蕁麻疹(じんましん)が出ているのに気づきました。その時、神は私の心に、「いやしを祈ってみてはどうか。」と語りかけて下さり、集会中、ひたすら祈りました。そして、感謝なことに、集会が終わった時にはいやされて、蕁麻疹(じんましん)も消えていました。
いやしは誰もができることで、特別な資格はいりません。あなたが誰かのために祈ってあげることです。信仰者が祈る祈りは、働くと力があり、病める人はいやされていきます。この恵みをいただきましょう。