主に向かう信仰の行動

マタイの福音書26章6節~13節

…律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。…イエスは人々に言われた。「…安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」…その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。…


4月も残りわずかになりましたが、残りの期間もますます神様の恵みを求めていきましょう!

29日のバザーに向けて主の御前に奉仕していきましょう。バザーには4つの柱があります。「奉仕をすること」、「皆と交わりを深め、祈ること」、「証しのバザーとなること」、「伝道のための捧げ物を生み出すこと」であります。

イエス様のための奉仕ですから、私たちにできることを精一杯、喜びをもって成していきましょう。その中で、神様の恵みをますます体験することができます。私たちの教会生活の中に溢れている恵みを数え直し、喜んで前進していきましょう。

その恵みの中でも、今日は特に、イエス様の「癒し」を真正面から受け止め、イエス様のおられる所には癒しが起こること、聖霊による悪の力に対する勝利が与えられること、そして、私たちの具体的な生活の中に、主の御業が働くことを信じましょう。

今日も、私たちは礼拝の中でイエス様に出会いたいのです。今日開いた聖書のお言葉の中で、そこにおられたのはまぎれもないイエス様でした。

ある安息日、会堂でイエス様は右手の萎えた人の手を癒そうとなさいました。イエス様の癒しを期待する人々がいる一方で、律法学者たちはイエス様が安息日の律法を犯さないかと見張っていました。しかし、イエス様はそのことを見破り、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、悪を行うことなのか」と問われたのです。

今日の礼拝で「あなたは何を求めているのか」というイエス様の言葉を受け止めたいと思います。3つのポイントを確認しましょう。

1.同じ一つの礼拝でも様々な思いを抱いて出席している可能性がある!

律法学者たちは救い主であられるイエス様を裁こうという思いでイエス様の前にいました。

私たちも礼拝に参加しながら、礼拝以外のことに心を奪われていないでしょうか。怒りや憎しみで心がいっぱいであったり、また礼拝後のスケジュールが気になってしまったり…。

せっかく礼拝しながら、罪深い思いにならないように、心の中を吟味し、「善なのか、悪なのか」を問い直しましょう。

2.あなたにとって、主キリストはどういうお方ですか?

律法学者たちは、イエス様の欠点や(あら)を探し出して、イエス様を非難し、殺そうとしました。

イエス様は、あなたにとっての敵でしょうか? それともあなたを救い癒してくださる主でしょうか? 目の前におられるイエス様を批判や文句の対象としてではなく、救い主、癒し主として受け入れましょう。

3.主に喜ばれる最も聖く、善なるもので礼拝しよう!

クリスチャンを縛るのは律法でなくキリストの愛、救いです。ですから、主イエス・キリストが甦られた週の初めの日である日曜日の朝を、神様を礼拝する時として、世界中のクリスチャンは聖日、主日として礼拝を捧げています。

今日の礼拝で主の御前に立つ時に、私たちは主に喜ばれる者として、聖い心、善なる心をもって集い、最高の癒しの力を求めようではありませんか。私たちはイエス様に集中して、イエス様、あなたがおられるのですから、最高の癒しの力をいただきたいです、と祈り求めていこうではありませんか。

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