主のいやしを信じ求める信仰

マタイの福音書9章27節~31節

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。…イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。…


新型コロナウイルス感染症の自粛生活の弊害で、私たちクリスチャンが日曜日に礼拝に参加することができなくても問題ないかのような生活を送るのではなく、「Go To Church !」キャンペーンを展開しながら、教会生活を復活させようではありませんか。

現在、自粛を要請されているわけではないのですから、コロナのせいにして、しなければならないこと、やりたいことを自粛して、心に鍵をかけて扉を閉ざしていては残念です。

今日の聖書箇所は、二人の盲人がイエス様の前に出て癒しを求め、劇的に癒された箇所です。イエス様は癒しを受けた二人に自ら働かせるべき信仰があることを教えています。

私たちは「イエス様を信じています」と告白していますが、改めて、私たちのあるべき信仰の姿をつかみ直し、吟味しながら、信仰を燃え立たせたいと思います。

癒し主であるイエス様に向かって祈り求める上で大切な4つのポイントを確認してまいりましょう。

1.自らが癒しを明確に求める

自ら癒しを求めることを明確に表明しましょう。二人の盲人は順番を待っていたから、何か審査に通ったから癒されたのではなく、目が不自由な中で、雑踏や周囲のざわつきでイエス様の到来を察し、どうにかしてイエス様に近付いて行ったのでした。

盲目ですから、イエス様の前に出るのに大変な苦労をしたでしょう。癒して頂きたいからこそ「あわれんでください」と大声で叫び切に求めたのでした。人任せではなく、自らの信仰を働かせ恵みを頂きましょう。

2.イエス様にはできると信じる

イエス様が病を癒すことができると信じること、これが、私たちが癒されるための鍵です。私たちの身体には神の力や命が作用すると信じましょう。

多くの人が、説明はつかないけれど癒されたことを体験しています。イエス様は「わたしにそんなことができると信じるのか」と二人の盲人にも私たちにも問うています。

私たちの目の前に聖霊によって臨在されるイエス様が癒し主であると信じ、私たちの信仰の態度、心を整えてまいりましょう。

3.イエス様の臨在に触れる

癒しの御業が力強く起きるためには、私たちがイエス様の臨在の場に立ち、触れるということが必要なのです。

イエス様は人としての姿をとり、人格を持ち、私たちと常に向き合い、共にいてくださることを感謝しましょう。

私たちがどこにいて何をしてどのような状態であってもイエス様は私たちを見捨てることはないし、常に共におられることを知りましょう。

4.今ここで癒されることにこだわる

この礼拝で、賛美の中で、祈りの中で、癒されることにこだわりましょう。教会は神を信じる者たちが共に集まり、賛美し、祈りを合わせ、濃厚な聖霊の働きがあり、主が喜ばれる場所だからです。

二人の盲人はどうして癒しを叫び求めたのでしょうか。彼らには、この時しかイエス様に出会うチャンスがないと思われたからです。

今、このチャンスを無駄にすることのないように、私たちも今日、主の前に「今、ここで癒してください!」と信仰を告白しましょう。

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