主との交わりを深める真の安息日

マルコの福音書2章23節~28節

ある安息日のこと、…弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「…なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、…神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」


政府は最近、新しい生活様式として「With コロナ」というキャッチフレーズをよく使います。

コロナウイルスの感染者数が増え続け、経済の破綻で先が見えづらくなっている今、すべてを恐れて、否定的になる悪循環に陥らないように気を付けましょう。

私たちクリスチャンは、「With ジーザス」です。イエス様と共に歩む告白をしようではありませんか。

イエス様が共におられるから、私たちは喜びにあふれ、罪から救われ、病のいやしや不安からの解放が与えられます。

この複雑な世の中で、迷うことはたくさんあります。しかし一番大事なことは、イエス様と共に歩み、イエス様に聞いて共に行動することです。そうすれば、必ず支えられ、守られます。

日本人の平均寿命が、また伸びました。私たちは、単に身体だけでなく、心も魂も健康でありたいと思います。

疲れ果てて生きる意味を何も見いだせないのではなく、車と同じように、身体もメンテナンス「命の手入れ」が必要です。週の初めに教会に集って神様を礼拝し、魂の深呼吸をして、神様からいただく恵みで心を整えてまいりましょう。

今日の聖書の個所は、「安息日=神を礼拝する日」について、イエス様が語られたエピソードです。

旧約の時代からユダヤ人は、安息日には礼拝以外の労働をしてはいけないという掟がありました。それでパリサイ人は、安息日にイエス様の弟子たちがした行為が労働だと非難したのでした。

それに対して、イエス様は「安息日は、人間のために設けられたのです」とお答えになりました。神の恵みは、私たちのためのものであって、安息日の規則は私たちを縛るものではないと語られたのです。

新約聖書を通してイエス様の教えを信じる私たちは「安息日」を、旧約の時代のそれを超える日としました。神の御子であるイエス様が十字架にかかって私たちの罪をあがなわれ、死の力を打ち破ってよみがえられた、「主の日」と定めたのです。聖餐式の前に、忘れてはならないことを確認しておきましょう。

1.神によって与えられた命

私たちの命は、偶然や自然発生的に湧いてきたのではありません。天地創造の前から、神の深い御旨の中で私たちは存在し、命を与えられ、神の御許(みもと)へと帰っていくのです。神抜きにして、私たちの存在は考えられないのです。

2.神と向き合う時間と場所が必要

私たちは、事あるごとに神の恵みの元に帰りましょう。エネルギーを充てんし、傷ついて病んでいる部分を恵みによっていやされ、強められましょう。だから、私たちは週の初めの日「主の日」には神を礼拝する場に戻り、魂を開け放って命の平安をいただくのです。

3.イエス様とのつながりを強める

イエス様は、私たちの罪や弱さを全部背負い、十字架にかかって死んでくださいました。イエス様を救い主と信じて受け入れることで、私たちの幸せを妨害する悪や罪の力を打ち砕いてくださいます。

聖餐式でイエス様のよみがえりの命をいただき、聖霊の臨在を体験して人生を歩むなら、迷いや弱さがあっても大丈夫です。霊的な安息日の礼拝によって恵みを受け止め、信仰を働かせてまいりましょう。

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