新しい生ける道を与えてくださった大祭司

ヘブル人への手紙10章19節~25節

…私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して…新しい生ける道を設けてくださったのです。また…私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、…しっかりと希望を告白し…互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。…かえって励まし合い…ますますそうしようではありませんか。


私たちは、職場であろうと家庭であろうと、そこで感謝を持って過ごすのと、不機嫌でイライラしながら過ごすのとでは、全然結果が違ってきます。私たちが信仰を働かせて生活の場に立つことができるならば、必ず大きな祝福が与えられるのです。
先週も、ヘブル人への手紙7章からメッセージを語りましたが、そこには、イエス様が永遠の大祭司であると表現されています。イエス様の贖いの死によって、私たちは神様に結びつけていただきました。このことを私たちは感謝したいと思います。そしてこの11月の終わり、私たちは感謝ということを常に意識して歩みましょう。今日はこの箇所から2つのことを確認していきたいと思います。

1.主が隔ての垂れ幕を取り除かれた

20節を読んでみましょう。旧約の時代には、幕屋の中の神の臨在がある聖所と至聖所の間には垂れ幕があり、その垂れ幕の向こうには、年に1度大祭司だけが入ることを許されていました。単なる1枚の垂れ幕でありながら、誰も入ってはいけない隔ての垂れ幕であったのでした。十字架の上でイエス様の命が捧げられたとき、清い神様と罪に汚れた私たちを隔てていた神殿の幕が破られたのでした(マルコ15:38ほか参照)。イエス様が私たちの救い主であられるので、神の恵みと私たちの現実を隔てていた幕が破り去られ、私たちは神の恵みの座に大胆に入っていくことができるようになったのです。
隔ての幕を破ることができたのは、罪のない神のひとり子イエス様だけなのです。人間の心にある罪を取り除くために命を捧げられた方は、神が人となられたイエス様以外にはないのです。

2.主が開かれた新しい生きる道を歩む

イエス様が十字架の上で私たちの罪を贖われ、3日目によみがえられたことで、神の命を私たちに示してくださいました。聖書の語る「新しい生ける道」は、人間が用意する地図やナビゲーションには現れない、神様だけが開くことのできる道です。
さあ、クリスチャンとして、信仰の原点に立ち返ろうではありませんか。大祭司なるキリストに導かれて新しい生ける道を歩むために、私たちは信仰を告白し、洗礼を受けました。あなたの毎日の生活を見て、神様にちゃんと近づいていると言えますか? もちろん、神様は私たちがいつも弱さを抱えていることはご存知です。でも、私たちはキリストに似た者でありたいと思うのです。クリスチャンである私たちは、イエス様から約束をいただいています。イエス様は絶対に嘘は言われません。だから私たちは、イエス様から与えられた希望を見失いません。そして、私たちは互いに祈り、励まし合おうではありませんか。
クリスチャンである私たちは、自分のことだけでは終わりません。イエス様が私たちのために命を捧げられたように、私たちの人生も、誰かと命を分かち合っていきましょう。愛を持って家族や友だち、職場の仲間と向き合っていこうではありませんか。
私たちは教会に集まり、生きた礼拝を捧げることを共に励んでまいりたいと思います。それは、イエス様が与えてくださった新しい生ける道を歩んで行く人生です。今週も、私たちは喜び感謝して前進してまいりましょう。