絶望の中にある神様の恵み

詩篇22篇1節~10節

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。…わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。…しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります…しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。…生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

一年の折り返しです。年の始めにどんな計画を立て、どんな願いを神に祈りましたか。その計画や祈りは、実現しましたか。今年のテーマは「事を成し遂げる」です。もう一度、一年の始めにいただいた願い、祈り、計画が実現することを祈っていきましょう。
私たちには本当に神に願い期待しなければならないことがあります。今日の詩篇22篇では、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と激しい苦悩と絶望的な言葉で始まっています。詩篇22篇は「メシアの詩篇」と言われていますが、それは単に詩篇が書かれた何百年か後のイエスのことを預言した言葉ではなく、詩篇の作者の時代のイスラエルの人々が抱えていた苦悩であり、うめき、叫びでした。そして今日私たちは、この叫びをイエスの苦悩、旧約時代の信仰者のうめきに終わらせるのではなく、私たち自身を重ね、自分の叫びとして受け止めたいと思います。今日は、「絶望」を通して私たちと神との関係が一層深くなり、心から神を賛美する者となることを具体的に学びましょう。

1.絶望が神への祈りを生む

絶望することにより私たちは本気で神に叫び、祈り始めるのです。人生には、問題を抱えたり、欲しいものを我慢し、うまくいかないことがいっぱいあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケⅠ5:16-18)なぜ御言葉通りできないのでしょう。私たちは、苦しんでいるけれど本当に「絶望」していないのです。他人や自分自身に望みを抱いているのです。教会はお互いのために祈るところですが、人ばかりを頼りにするのではなく本気で神に祈る者になりたいのです。ただ苦しむのではなく、一度「絶望」してみることが必要なのでしょう。

2.絶望によってへりくだることができる

「虫けらです。人間ではありません。」(6節)と作者は自分自身のことを表現しています。私たちは置かれた状況に絶望しても、簡単には自分自身の無力さに絶望しません。「あなたがたは苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(ヤコブ4:9,10)絶望しなければならないことをヤコブは語りかけています。絶望することによって、主のみ前にへりくだり、私たちは主によって高く上げていただくのです。パウロは「したいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7:19)と告白し、ヨブは全財産や子供たちをなくし、自分のからだはらい病に侵され、初めて自分の力の限界に絶望し、彼の眼は開かれました。(ヨブ42:2,3)

3.絶望が神にゆだねる人生をもたらす

22篇ではしばらく苦しみの告白が続きますが、9、10節がターニングポイントになります。虫けらのような者ですが、私の命はあなたから与えられたものであり、主の御手の中にあります。だから主に委ねるしかないと告白しています。たとえ賛美できない状況でも、主は今ここにおられ、すべてを委ねるときに、私たちは心の奥底からの賛美に溢れます。

2019年の後半が、「絶望」することから与えられる神の恵みを体験する日々であることを祈ります。