主の恵みに近づく秘訣
…ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」…彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「…ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、…きよくなった。
列王記第二5章1節~14節
今日はナアマンの癒しの物語を通して、私たちの信仰生活を神に喜ばれるものへと軌道修正し、自分の信仰を成長させるための秘訣を学びたいと思います。3つの目の付け所を確認しておきましょう。
ナアマンは、イスラエルの敵国アラムの王の将軍であることを覚えておきましょう。一歩間違えば戦争になるという緊張状態での物語です。
1.神ご自身が働かれる御業を求めよう
神は私たちの想像をはるかに超えて力強く働かれ、無から有を、全てのものを生み出す御方です。あなたの信じている神は、奇跡まで起こすことのできる全能の神でしょうか。ナアマンは様々な手続きを経てやっと預言者エリシャのところまで来ました。丁重にもてなされると思ったにもかかわらず、エリシャは顔も見せず、ヨルダン川で7回体を洗いなさい、と電報のような言葉を伝言しただけでした。その無礼さにナアマンは激しく怒りますが、賢い家来たちになだめられ、エリシャの言葉に従い、7度目に川から出てきた瞬間、彼の肌は完全に癒されていたのです。私たちに必要なのは当てにならない人の慰めの言葉や手続き、理屈ではなく、神の御力です。私は神の御業を求める、とはっきりと意識し、主よ、私はこの一週間も神が直接働いて下さることを求めます、と積極的な信仰を働かせてまいりましょう。
2.自分の思いではなく、神の御言葉に従う
ナアマンは激怒し、危うく癒されることなくアラムに帰ってしまうところでした。何が問題だったのでしょう。彼の感情のもつれです。彼は一生懸命頑張り、複雑な手続きをしてきたのだから、手厚くもてなされたいと思っていたのですが、彼のために本当に必要なのは、彼の気持ちを満たすことではなく、彼を癒すための神の言葉が与えられることだったのです。それが際立つように、エリシャは顔も見せません。ナアマンに必要なのは、明瞭な神の言葉だけだったからです。私たちはしばしば自分の感情や欲求に従い、自分が愛され、大切にされ、持ち上げられることを求める傾向があります。しかし自分の身勝手な感情よりも、神を第一とし、御言葉に従えばいい、と自分に言い聞かせようではありませんか。まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものは神の国に添えて与えられます。生活の中に必要なもの、欲しいものもあるでしょう。しかし、何よりも私たちに命を与えて下さった神の御言葉を受け止め、身勝手な思いではなく神の御言葉に従えるよう自分を成長させて下さいと祈りましょう。
3.神による清めと癒しをいただく
ナアマンの心の中には人間的な手続きや方法、自分の感情、勝手な自己判断しかありませんでした。しかし彼に求められていたのは、神の清めの力癒しの力を体験することであり、そのために、御言葉に従うことでした。神への求めを、人間的な薬や手術の延長上にしてはなりません。表面的な病気の癒しではなく、自分の魂が、イエス・キリストに結びつき、癒され、解放されるという神の恵みを求めましょう。神との交わりを求め、神の御業を直接いただくことです。神が共におられることを体験するために、この礼拝を単なる習慣や惰性で終わらせず、神に期待して祈り、神の御業を全身でいただきましょう。