神のみこころに添う悲しみ~悔い改め~
…すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。…イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、…「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。…それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
マタイの福音書26章69節~27章5節
春の訪れを感じながら、いよいよ春のバザーの準備が本格的に始まりましたが、決して忘れてはいけないイースーターがその前の週にはあります。イエスが復活していなければキリスト教会の歴史や救いはなかったことでしょう。信仰の原点に立ち返り、今日は悔い改めをテーマに学びます。今回の箇所は12弟子のペテロとユダの裏切りから始まる悲しみについて書かれています。
イエスが十字架にかかる前夜、「どこまでも従います」と言うペテロに、イエスは「鶏が鳴く前に三度、あなたはわたしを知らないと言います」と予言されました。結果それは事実となってしまいます。そのことでペテロは深い悲しみに陥りましたが、後に彼は初代教会の偉大な指導者となります。一方、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売ったユダは、イエスが死刑になることを知った時、後悔して銀貨を返しに行きましたが、もう手遅れでした。ユダは悲しみの結果、自ら命を絶ったのです。2人の違いは悲しみの質の違いがもたらしました。第Ⅱコリント7:10「神のみこころに添った悲しみは(省略)悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」。この御言葉も併せて分かち合いたいと思います。
1.背負うのではなく、背負ってもらう
私たちは問題などが生じた時、祈りながらも、どこかで自分自身で何とかようとしていませんか。ユダは裏切りから始まりましたが、自分がしてしまった過ちに気づき何とかしようとしたけれどもダメでした。ユダは自分自身でどうにか解決しようとしたのです。ルカ15章には悔い改めのたとえ話があります。「飼っている100匹の羊のうち、1匹がいなくなれば飼い主は99匹を置いてその1匹が見つかるまで探し出し、見つけたのならその羊をかついで大喜びする」と記されています。それと同じように、1人の罪人が悔い改めるとき、天には大きな喜びがあるのです。その羊が自分では何もせず、ただ羊飼いにかつがれたように、私たちもイエスに背負ってもらうことです。それが悔い改めでもあるのです。
2.自分自身に絶望する
弟子の中でもペテロはとても忠実でした。イエスに対して従う心やあの情熱が、いとも容易く裏切りに変わってしまい、自分自身に絶望したでしょう。主が本当に願っておられることは、高価な捧げものではなく、砕かれた悔いた魂です。自分自身に絶望することです。そのあとに悔い改めがあるのです。
3.主の目が注がれていることに気づく
ルカの福音書のこの場面では、ペテロがイエスを知らないと言ったとき、イエスは振り向きペテロを見たと書いてあります。その目は、決して責めるものではなく、温かく、絶望しているペテロを優しく見る目だったでしょう。だから、ペテロは神のみこころに添った悲しみの中で、悔い改めることができ、指導者として用いられたのです。私たちも同様に、イエスから注がれている目に気づくことが大切です。それこそが悔い改めて生きるということです。
主は悔い改めて生きなさいと言われます。それにより私たちは聖霊を受け、賛美で溢れ祝福されて人生を歩むことができるのです。