私たちを取り囲む“神の愛”に立ち返ろう

…患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。…しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。…私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。               ローマ人への手紙5章3節~11節

 

桜の季節は春の到来だけでなく、新年度の始まりの季節で、様々な想い出があるでしょう。さらに、始まりの季節は初心に立ち返るべき季節です。黙示録では、初めの愛から離れてしまった人々に大きな警告が与えられています。私たちもイエスの愛に感動した新鮮な心に立ち返りましょう。お金があっても霊的感性がピント外れでは幸せになれません。クリスチャンとして、前向きな信仰を与えられて祝福を信じて歩んでいても、必ずしも良いことばかりが起こるとは限りません。一見困難や試練と思われることが起こるのも事実です。しかし、信仰者の恵みは、患難さえも喜ぶことができるということです。時が悪くても結局は私たちのための恵みとなり、何をしても必ず栄えていくのです。なぜなら、神の愛が注がれているからです。クリスチャンはこの愛によって生かされていますが、この愛は、私たちが描く甘ったるいものではありません。神の愛は人の愛とは違います。神の愛の性質を見ていきましょう。

1.価値のない者のために死ぬ

年は4月20日がイースターで、その前には受難週があります。イエスの十字架の死について聖書は、取るに足りない者のためにもキリストは死んで下さったと書かれています。イエスの働きの妨げにならないために、役立たずの私たちが死ぬのなら話は分かります。しかし逆に、イエスが私たちのために死んで下さったのです。人間的な感覚では、計算の成り立たない全くの無駄死にですが、それは、神が私たちを愛していて下さったからだと書かれています。
イエスは、私たちを愛して死んで下さったのです。私たち一人一人がその愛を経験していることを思い出しましょう。私のような者を救うために命を捨てて下さった。本物の愛が神から私たちに注がれていることを感謝しましょう。

2.罪を取り除く

8節~10節にあるように、罪により神に敵対していた私たちのために神の御子が死に、その血によって罪が赦され義と認められ、神の子どもとされ救いが与えられました。
最近のニュースで、死刑判決を受けて拘置所にいた方に再審が認められました。えん罪だったことはほぼ確実なのでしょう。48年間も拘置所にいて、罪に定められるとは人生が無駄になることです。無実の人を死刑囚にしてしまう恐ろしさを覚えますが、どれほどかわいそうに思っても、その人のために身代わりに拘置所に入る人がいるでしょうか。しかしイエスは、罪を持って死ぬことだけが定められていた私たちのための身代わりとなって死んで下さったのです。そのことで私たちは命を得ることができました。イエスの死により、この世での平安や幸せをいただくだけでなく、死のあとでも天国に入れる喜びでとらえられているのです。だから、少々不都合なことがあっても揺るがされない大いなる喜びによって生かされて生きるのです。平凡な庶民かもしれない、そんなあなたを神は愛しておられます。
どんなに賢くなっても信仰音痴になってはいけません。どれほど世的に立派になっても、主への感謝を忘れず、神の愛を喜ぶ者でありたいのです。新年度もこの喜びをもって歩みましょう。