シンプルな原則に立ち返ろう

…夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。…ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。…私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」                                          使徒の働き5章17節~32節

キンモクセイの良い香りが立ち込める爽やかな季節になりました。
しかし、あなたの生活の中には、仕事や健康などで気になる問題があるかもしれません。そんなときこそ第一にすべきものを最初にしましょう。「神様、あなたが一番」と讃美しながら、生活の中では忘れて他のことが一番、礼拝に行くのも二の次になっていませんか? いつもクリスチャンとして生きなければ、神の恵みを十分に受けることはできません。ここでもう一度、シンプルな信仰の原則に立ち返りましょう。

1.人に従うより、神に従う

祭司長たちを前にしてペテロが「人に従うより、神に従うべきです」と言っています。納得できる人間の理屈や、怒りや熱情という人間の感情ではなく、神に従うというのがクリスチャンの原則です。
祈りの最後に付け加えることは、「でも主よ、私の思いではなく、みこころに従わせて下さい」です。呪われた十字架刑を前にしたゲツセマネの園でイエスも、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られたのです。
ペテロたちは、祭司長や律法学者に脅されても神に従ったのです。私たちは、ちょっと嫌な思いをさせられただけで断念していませんか? いろいろな思いを背負っているでしょう。しかし、クリスチャンの原則は常に、「人に従うより、神に従うべき」です。

2.イエスの十字架と復活に立ち返る

とんでもない罪人である私たちを救うためにキリストは死んで下さり、永遠のいのちの保証のためによみがえって下さいました。
どのような厳しい状況の中にあっても、イエスが罪の全てを背負って、私が死ぬ代わりにイエスが死んで、私に命を与えて下さったのだから、私たちは弱くて取るに足らない者でも十分に生きる価値があります。私たちは、イエスによって、全てから解放されているのです。
30~31節を「私」と読み替えてみましょう。イエスを十字架に架けたのは、私の罪です。私の罪の身代わりにイエスは死に、よみがえられたのです。この出来事を他人事で終わらせている間は、信仰の恵みは絶対に自分のものにはなりません。

3.キリストの証し人である

32節に「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」とある通り、私たちは自分の人生を通してキリストを証しするのです。そのために、聖霊が力を与え、御業をもって証しさせて下さるのです。
あなたの存在が、周りの人々に救いの喜びとして伝わっているでしょうか。キリストの愛を笑顔で伝えましょう。ペテロたちは、人々を救いに導くために、このシンプルな原則を変えませんでした。
十字架の福音の原則に立ち、聖霊によって証し人として生かされる人生を歩みましょう。弱くても大丈夫、弱いからこそ聖霊の恵みがあるのです。