神を優先する生き方
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイの福音書6章31節~34節
私たちの人生には、心配事がつきものです。そして、「悩みがなければいいのに。」と、思ってしまいます。前進しようとしなければ、確かに、自分に都合の悪いことも起こらないのかもしれません。でも、それは本当の人生ではないと思います。
悩みがあっても、そのひとつひとつがきちんと処理されていく中で、私たちは、あるべき姿へと整えられていくのです。その中で、感謝や生きがいを体験していきたいのです。風の日も雨の日も、嵐の時もあるでしょう。だからといって、私たちの人生が揺らぎ、倒れることは決してないのです。いろんなことがあっても、私たちは守られ、前に向かって行くのです。そんな力強い、神に支えられた人生を歩んでまいりましょう。
今日開いた聖書の御言葉は、イエスが私たちに、神にあってしっかりと歩むようにと与えて下さった重要な御言葉です。この箇所から、人生で最優先とすべきものを考えておきたいのです。
1.神第一主義で歩む
私たちは、「祝福をいただきたい。」と思います。クリスチャンがいただく恵みは、どこからやって来るのでしょう。言うまでもなく、神からです。神とあなたとの関係は、大丈夫でしょうか。神に正しく結びついていないと、恵みはなかなかやって来ません。神との正しい関係に立ちましょう。
神は、私たちに命を授けて下さり、ご自分の命さえ捧げて下さったお方です。命とは、私たちが存在している根本ではありませんか。だから、命の与え主との関係を一番大切なものとしたいのです。
「自分が基準だ。」と決めつけてしまえば、一見、楽なように思えます。自分の考えが全部正しく、好きなように生きる。そうすると、元々は罪人の私たちですから、起きるのも着替えるのもだらしなくなって、何もせず、ただ食べてゴロゴロして、グウタラになってしまいます。
人が正しく生きるには、いつも神を意識しながら、神に向かって生きることです。そして、本当の幸せをいただくためには、神を第一として生きることです。いろんなひらめきがあなたの心の中にやって来るでしょう。その時に、「私の考えていることを、神がご覧になって、どうおっしゃるだろう。」と、御心を求めて生きていこうではありませんか。
時間の使い方でも、神を礼拝し、聖書を読み、祈り、賛美する時間をまず、真っ先に選びましょう。どんなに忙しくても、神を後回しにしないことです。お金の使い方でもそうです。買いたい物を買った後の残り物の献金ではなく、与えられた経済的な恵みの中で、まず第一に、神に感謝の捧げ物をお捧げしましょう。経済の必要は神が満たして下さることをはっきりと意識したいのです。私たちの経済の中に、神の経済原則が働くことを求めてまいりましょう。
また、将来の計画の中に、家族の救いや、奉仕など、神が喜ばれる計画をお持ちでしょうか。神を第一とすることを、具体的な生活に結び付けていきましょう。
2.何を食べ、飲み、着るか、すべて神にゆだねる
21世紀は、食べること、飲むこと、着ることの選択に迷うほど豊かな時代です。イエスの時代の人々には、これらのものが不足していることによる煩いがありました。しかし私たちは、飽食の時代に生き、タンスに入りきらないほど着るものがあり余っています。「何が自分に似合うだろう。」と悩み、イエスの時代とは別の悩みが増えています。
豊かな国に生かされ、実は、生きていくために必要なものはあるのです。食べることも飲むことも着ることも神にゆだね、与えられるものを受け入れ、むしろ感謝をもって歩むべきです。いらいらして思い煩い、幸せを台無しにすることがないようにしたいのです。
なぜ、私たちは、神にゆだねると平安に歩むことができるのでしょうか。それは、私たちの根本である命そのものが平安だからです。命ある者は必ず召されますが、罪赦された私たちの命は、神のもとへ行くことがちゃんと定まっていて、そこで生きる永遠の命があります。地上で生きて亡くなって、暗闇の中に置かれるのとは違うのです。
いろんな思い煩いが私たちの生活の中にはあるものです。でも、イエスは、「常に神のご支配の中で、神を愛することを第一に求めなさい。」と断言されました。私たちが幸せになるための明確なノウハウだからです。このことを心に刻みつけましょう。