神の御業のある生活

すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネの福音書6章28節、29節

私たちの人生の中で、物事が悪い方向へ変わることもあります。でも、しっかり思い起こしたいのは、イエスを信じる時、私たちの人生は恵みと癒しの世界へと導かれて行きます。「イエスと出会ってから、私の人生は変えられました。」とお証しするクリスチャンがたくさんいます。この主の恵みをさらにいただき、キリストに似た者として、栄光から栄光へと変えられ続けたいのです。
今日の聖書は、律法を堅苦しい位守っていたパリサイ人や律法学者が、イエスに、「神の御業をするために、何をすべきでしょうか。」と聞いたことから始まります。その時イエスは、「神の御業は、選ばれた者にしかできない。」とではなく、「神を遣わした者を信じることです。」と答えられました。
クリスチャンの神髄とは、もちろん、イエスを信じることです。イエスと共に歩む信仰を整えられたいのです。今日の礼拝でも、イエスから癒しの力をいただけることを喜び合いたいのです。二つのことを確認しておきましょう。

1.クリスチャンは、神の御業を体験できる

自分ひとりでわがままに生きる生活と、神が共にいて下さる生活は、まったく違います。
たとえば、車を持たない生活は、時間を待ってバスや電車で職場や学校に通い、雨が降ればびしょぬれになりながら傘をさして歩かなければなりません。それが、車を持つようになると、雨にぬれず動きたい時にすぐ動けるし、行動半径も広がり、人を誘って一緒に出かけることもできるようになります。それまでの生活とは全く質の違う生活が始まります。
同様に、救い主イエスが共にいて下さるならば、そこに神のなさる御業が行なわれます。
私たちの神は、「礼拝しなさい。」と要求するだけの動かない偶像とは違います。私たちが神を愛し仕えていくのは、何よりも、神の側から注がれる御業の方がうんと大きいからではありませんか。主は生きて働いておられ、私たちは信仰生活の中で、神の御業のなされる生活が与えられるのですヨハネの手紙第三には、「あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。神の御業とは何でしょう。それは、神の恵みそのものであり、この恵みを実現するために、神の御業が現われるのです。クリスチャンの特権とは、神の働きが人生の中に具体化され、そのことでたましいが救われ、同時に、生活の中でも様々な祝福があり、何よりも健康であるように導かれる約束があることです。

2.神の御業の実現のために、イエスを信じる

私たちクリスチャンの第一歩は、言うまでもなく、神が遣わされたイエスを救い主として信じることです。
携帯やインターネットで、メールの交換ができますが、まず第一歩としてするべきことは、携帯やパソコンに電源を入れることです。私たちの信仰は、いつスイッチが入りますか。それは、自分で努力をする時ではなく、イエスが救い主だと信じる時です。そして、癒しの恵みは、イエスを癒し主と崇める時に与えられるのです。
ヨハネの手紙第一は、「初めからあったものであり、私が見た、いのちのことばそのものであるイエス」と始まります。当時、ヨハネが各地の教会に手紙を送ろうとした時、どんな励ましや教えよりも、自分の五感で実体験した救い主を真っ先に伝えたかったのです。私たちのために神が遣わして下さったイエスを、いつも信仰の拠り所としましょう。
私たちはみんな、神の御業の現われる生活の中に置かれています。だから、癒しの礼拝の中だけでなく、あなたの信仰生活の中で、当たり前のように、「神が働いて下さった。」という御業を体験してよいのです。
ヨハネの福音書の七つのイエスの奇跡物語の中で、四つは、癒しの奇跡です。王室の役人の息子が癒された奇跡、ベテスダの池で38年伏せっていた男が癒された奇跡、生まれつきの盲人が癒された奇跡、ラザロをよみがえらせた奇跡です。そんなイエスの癒しの御業が、私たちに対しても働かれると約束されていることを喜びたいのです。そして、イエスに焦点を合わせ、信じることです。そうすると、神の御業の究極である神の命を得ることができるようになるのです。死する命が祝福され、永遠の命までも与えられ、神の恵みが現わされる生活が展開していくのです。