聖餐式にある2つの事実

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、…その敬虔のゆえに聞き入れられ…メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。…あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ヘブル人への手紙5章7節~14節

聖餐式は、教会でイエスの時代から2千年間続いている大切な儀式ですが、形だけで終わらせてはいけません。本当の意味を見出し、聖餐式を守る私たちがいただくことができる祝福をつかみ取りたいのです。今日開いた聖書箇所を通し、生きた本物の聖餐式が持つ2つの大きな事実を確認し、この聖なる礼典にあずかりたいのです。

1.神の御子キリストが人として来られた事実

イエス・キリストは、誰かが考え出した架空の神ではありません。歴史上の事実として、神が人となってこの世に現われて下さったのです。キリストは罪深い私たちの命が滅びていくのを救い出そうと、十字架の死にまで従順に従って下さいました。イエスは、ローマ兵から鞭で打たれ、背中の肉を剥ぎ取られ、血がしぶきのように流れ、手足に釘を打ち付けられ、死の苦しみを受けられました。しかし、その中にあっても、私たちに救われた人生と永遠の命を与えるために、祈りを捧げられた事実があるのです。
 「教会に来たら、人生の重荷を降ろすことができるよ。」と言うのは、教会で良いお話を聞き、立派な人間になれるという意味ではありません。イエスが、私たちの人生の悩みや重荷を全部背負い、私たちの身代わりに死んで下さった事実があるからなのです。あなたが悲しみから解放され、イエスが持たれていた神の命の喜びを受けるために、イエスは十字架の死を遂げて下さったのです。
今日の聖書は、キリストが大祭司と呼ばれたと語っています。大祭司は、年に一度、神殿の一番深い所に入り、神の選びの民の罪が清められるように動物のいけにえを捧げ、とりなしの祈りをしました。イエスは、動物のいけにえではなく、何の罪もないご自分の命をただ一度の決定的な捧げ物とされ、最高の大祭司となって下さり、私たちが神から祝福される救いの道を用意して下さったのです。
 今朝、パンとぶどう酒をいただきますが、ただのパンとぶどう酒ではありません。パンは、あなたのために死なれたキリストの御体を、ぶどう酒は、あなたの救いのために流されたキリストの血を表わします。パンを食べ、ぶどう酒を飲むときに、私たちの救いの事実であるキリストの十字架の死が、確かに目の前にあることを受け止めたいのです。

2.私たちが、まだまだ弱い信仰者であるという事実

洗礼を受けて、もう10年、20年。でも、逆に、もう一回おっぱいを飲まなければいけない情けない者に逆戻りしているということはないでしょうか。強さを誇るより、何年経っても神の御前に整えられなければいけない弱さがあることを素直に認めたいのです。「神様。私は、ちょっと嘘をついたりする悪いことは成長するのに、人を愛したり、良い物を分け与えることについては、なかなか成長できない心の鈍い者です。成長させて下さい。」と素直に祈りましょう。
神からちょっと目を離すと、神が与えて下さるおとなとしての人生をまともに歩んでいくことができなくなることを悔い改めたいのです。私たちが目指すべきは、神から見ても堅い食物であるおとなの食物を食べることのできる、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された者とならせていただきたくことです。イエスに習い、イエスと共に歩むときにその成長が与えられます。
21世紀の社会は大変複雑で、何が正しくて私たちを本当に幸せにするのか見分けることが難しい、文字通り玉石混交の時代です。でも、その中でも、信仰によって本当に神に喜ばれる物を選び取りたいのです。
本物の幸せは、誰かから良い物をもらうことではなく、イエスがもたらして下さった、私たちの存在の奥底からあふれる救いの喜びです。あなたの屁理屈を越えて、あなたを愛して下さったイエスの愛の事実に向き合いましょう。そして、素直に自分の弱さや罪深さを悔い改めようではありませんか。
ヘブル書4章には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあります。私たちには救いの道があります。しかし、真理であり、道であるイエスを通してでなければ近づくことができません。イエスを信じ、大胆に神の御座に近づきましょう。そうすれば、弱さを抱えたあなたにも大きな恵みが与えられます。