ヨブ記の恵み~主が願っておられる事~
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。…彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」…(ヨブは)言った。「…主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」…ヨブは主に答えて言った。… 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。…ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。
主はヨブがただ苦しむ事を望んでおられたのではありません。主がヨブに、私たちに願っておられる事は何か、4つのポイントでヨブ記の恵みを知りたいと思います
1. <主が願っておられる事>本物の讃美と信仰
サタンは「ヨブはいたずらに(ただ・ご利益なし)神を恐れましょうか」と言いました。ヨブが神様を恐れ敬っているのは、祝福やご利益があるからで、それがなくなれば、ヨブはきっと神様に向かって「のろうに違いありません」(原語の直訳では「ほめたたえるのをやめるに違いありません」)と言いました。
サタンの狙いは、ヨブが、私たちが、神様を呪う事、ほめたたえ讃美する事をやめる事です。逆に、主が願っておられる事は、ご利益があっても無くても主をほめたたえる事をやめない本物の讃美と信仰です。ヨブは、サタンによって全ての持ち物、子どもたちを失いましたが、それでも主を呪うのではなく、「主の御名はほむべきかな」と讃美したのです。本物の信仰です。自分の思い通りにならなくても、「もしそうでなくても」、偶像を拝んだりしない、ただ主を礼拝する信仰です。 ヨブ記の後半で主がヨブに現われて、自然界の不思議の数々を問われます。私たちには分からない苦しみもありますが、それ以上に数多くの、私たちには分からない恵みがあふれています。それに気づいて、主をほめたたえれば良いのです。
イエスは、魚が一匹もとれず、くさりかけ、疲れ果てていたペテロに対して、特別な恵みを用意していました。あえてシンプルに、「深みに漕ぎ出し、もう一度網をおろして魚をとりなさい」と言われたのです。同じように、主キリストはあなたのために、御言葉を語ってくださっているのです。
2. <主が願っておられる事>悔い改め
義人はいない、ヨブも私たちも、悔い改めが必要です。ヨブにも、神より自分を義とする罪がありました。主はヨブに「あなたは…自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」と言われました。「私は正しい、間違っていない、あなたのせいです」と自分を義とする罪は、全ての関係を破壊します。しかし、「私の間違いでした、ごめんなさい」と素直に悔い改めるとき、神様との関係が回復します。
そして、ヨブが主に「今、あなたを見ました」、だから、「悔い改めます」と言ったように、悔い改めの鍵は、神様との出会いです。本当に主と出会う時、私たちは自分を義とする事なく、「私の間違いでした。主よ、あなたが正しいのです」と言えるのです。
3. <主が願っておられる事>祝福・幸せ
「悔い改める」という言葉“ナーハム”には「慰められる」という意味があります。主はヨブを慰め、失ったものの二倍の祝福を与えられました。イザヤ書40章では同じ言葉が「慰めよ」と訳され、バビロン捕囚によって失われた全てのものを回復して余りある二倍の祝福が約束されています。主が願っておられる事は、私たちを苦しめる事ではありません。私たちが祝福され、幸せになる事です。忘れないでください
4. <主が願っておられる事>元どおりになる事
ひどい皮膚病で苦しんだヨブの体が元どおりになったのは、ヨブが友(敵)のために祈った時です。その時、ヨブの心は、本来の姿を取り戻したのです。友のために、敵のために、祈る、それは主イエスの姿です。神のかたち、神に似る者、本来の姿を取り戻す事、それが、主が願っておられる事です。 「主の御名はほむべきかな!」
5.しるしと不思議、力ある業がもたらすきっかけ!
43節には、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われたとあります。聖餐式を通して力ある業が起こったのです。
主キリストを信じる者たちが、聖餐式において一つに結び合わされ、交わりをし、互いに祈り合う時に、病は癒されるのです。不可能なことは一つもないと言われる神の恵みが具体化されるのです。
聖餐式にあたり、しるし、不思議、力ある業が起こる恵みがあることを感謝しましょう。