私たちの日常を考えよう
夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
今まで当たり前だと思っていた日常もちょっとしたきっかけで壊れてしまうようなことが起こるものです。私たちは当たり前なことを当たり前にせず、与えられている恵みを数えながら、祝福された日常生活の歩みを神によって確実に与えられていきたいと思います。クリスチャンとしての日常、あなたの当たり前の生活の中に神の恵みが豊かに流れているように、祝福されたクリスチャン生活を私たちのものとして受けとめていきたいと思います。
今日の聖書箇所には、夕暮れ時になってもなお連れて来られる病人や悪霊つきを、イエス様はことごとく癒されたことが記されています。この前の箇所から見ていくと、イエス様がどのような日常を送っていたのかを知ることができます。14、15節では、イエス様の救い主としての働きが始められたことが記されています。そして16節からは、イエス様はまずガリラヤ湖で漁師たちに、自分の弟子になるように声をかけられ、会堂に入れば聖書の教えを語り、悪霊を追い出し、人々を解放し、弟子の家で姑を癒し、そして、夕方になり、夜になっても人々を癒されていたのです。イエス様は一日中、救い主として働いていたことがわかります。この箇所は、「イエスのある日常」と語られる箇所で、イエス様の一日の様子が記録されていますが、これがイエス様の日常でした。
今日は「私たちの日常を考えよう」をテーマに、3つのことを確認し、私たちが何をしていようとイエス様が共におられる日常生活を思い起こしましょう。
あなたの日常がどんな日常かを確認しましょう。クリスチャンであるのに、週に一回しかイエス様にお会いしないような、イエス様のいない日常が当たり前になってしまうことがないようにしましょう。朝起きた瞬間から、「神様、感謝します、今日一日も祝福されますように」と、イエス様を迎え入れる者でありたいし、イエス様が常に共におられる日常生活を私たちのものにしようではありませんか!
2.主キリストにいつも願い求める!
イエス様が共におられるのだから、常にイエス様に祈り求めようではありませんか。体調が悪ければ、癒しを祈り、何か失敗して落ち込んだら、元気になるように祈り、不安があるならばそれが取り去られるように祈りましょう。どんな些細なこととでも、自分の必要を感じた時には、まずお祈りすべきです。
3.主キリストのみわざをいつも体験しよう!
イエス様の恵みの御業は、特別に選ばれた、ものすごい抽選を勝ち抜いた人にしか与えられないのではなく、「イエス様の日常生活」において、イエス様の御元に連れて来られた人々全員に与えられたのです。イエス様の恵みから漏れる人は一人もいなかったのです。私たちも「イエス様が共におられる日常」を作り出すならば、イエス様が私たちの願いに応えてくださり、御業を現わしてくださいます。
救われた私たちには、イエス様が常に一緒におられます。ということは、イエス様が共におられる日常にあずかることができるということです。イエス様が共におられることが、私たちの「ごく当たり前の恵みの日常」なのだということを確認しておきたいのです。イエス様の恵みを常に体験してまいりましょう。