キリストとの愛と聖霊の力でひとつとされる

創世記11章1節~9節


…全地は一つのことば、一つの話しことばであった。…彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。…」…主は仰せになった。「…さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。


本日は、インターナショナルデーの礼拝です。国籍も言葉も異なる皆さんが、教会では一つとなって神様を礼拝し、神の家族としての交わりがあることを感謝します。

今、世界の状況を見ると、アメリカの警察による人種差別、韓国と北朝鮮の一触即発の状態など、国や民族間の対立が顕著となっています。

今日読んだバベルの塔の物語は、全人類が同じルーツを持ち、全地は一つの言葉であったのに、どうして世界中にたくさんの言語があり、人類が対立するようになったかを教えています。

人類はアダムから始まり、ノアの時代にほとんどが洪水で滅ぼされました。しかし、神はノアと息子たちを祝福して「あなたがたは生めよ、増えよ」と、人類に新しいチャレンジを与えました。神を讃える民として人々が成長することを神は期待したのです。

しかし、文明文化が進歩すると人間は高ぶり、神の御計画に従うのではなく、自分の思い通りに行動するようになりました。

私たちはこのような罪の性質を持っているので、幸せになりたいと思いながら、不幸になる種を蒔いてしまわないように、特に3つのことに気をつけましょう。

1.自分の業に酔ってはいけない

自分でできることに酔ってしまって、何でもできるという根拠のない万能感に陥らないことです。弱い私たちは、神の愛によって生かされているのです。

2.他の人と比較してはいけない

万能感に酔っていると、人と自分を比較する感覚が芽生えてきます。人と比べて得る優越感や劣等感は、どちらも私たちを幸せにはしないのです。

3.自分が神様になってはいけない

常に人と自分を比べて優越感を得ようとしていくと、自分が考える通りにしたいという、とんでもない高ぶりを持つようになります。自分と神が区別できないような恐ろしい心の状態に陥ることがないように気を付けましょう。

高ぶりは神への反抗であり、数ある罪の中でも一番恐ろしい罪だと聖書は教えています。私たちはもう1度原点に立ち返りましょう。

神のようになることを願うのではなく、神に感謝する生き方をしたいと思います。私たちは、夢やビジョンにチャレンジできる人生を与えてくださった神に感謝しましょう。

そして、周りの兄弟姉妹の個性を尊重し、愛し、仕え合おうではありませんか。

バベルの塔の物語では、自らの偉大さを誇ろうとする人々を神が裁かれました。違う言葉を話すようになった人々は、コミュニケーションがとれなくなり、バラバラになって対立し合うようになります。これは、私たちの罪が招いてしまった宿命です。

しかし、主イエス・キリストは、十字架で私たちの罪を贖い、永遠の命への希望を与えるために、死を打ち破り復活してくださり、さらに天からの力である聖霊を降されたのです。

この聖霊によって与えられる大きな恵みは、聖霊による新しい言葉を語り始めたことです。これにより、それまでバラバラであった人々が、神の家族となり、一つに結び合わされるのです。この喜びを分かち合いましょう。

今日、世界中からそれぞれ違う人生を背負ったお一人一人をイエス様は選び、ここに集わせてくださいました。神の大家族として共に歩んでいけることを感謝したいと思います。

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