イエスを振り向かせる信仰
マタイの福音書9章18節~26節
…ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、…娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると…十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。…イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「…あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。イエスはその管理者の家に来られて、…少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と呼ばれ、共通の物語が多く記されています。ですが、著者達は同じイエスの事を見聞きしながらも、受け止めた事にも、伝えたい事にも違いがありました。神はその違いを通し、私達に様々な事を教えようとされています。
今日の箇所には、会堂司ヤイロの娘が生き返った話と、長血を患っていた女が癒された話、2つの物語が記されています。これらには、マルコ、ルカの記事と明確な3つの違いがあります。今日は、この違いがある事を踏まえてお話しします。
1.大胆にイエスに近づく
私達は遠慮なく主に近づこうではありませんか。長血を患っていた女は、イエスの後ろに来て衣のふさに触ったのです。マルコでは、「彼女が群衆にまぎれこんで触った」と記されています。それは、彼女がこっそりと触ったという事を意味しているかもしれません。しかし、マタイは、群衆に紛れ込んだ事を記していません。彼女はもっと直接的に、勇気を持って大胆にイエスに近づいたのです。22節に、イエスは振り向いて…、とありますが、これは振り向かされたのであって、つまり彼女の能動的な行動がイエスを振り向かせたのです。ヤイロは、死んだ娘の生き返りを求めてイエスの御元にひれ伏しました。なんと大胆なイエスへの近づき方でしょう。私達も大胆に恵みの御座に近づく者になりましょう!
2.イエスが関わろうとしてくださる
マタイは、他の福音書よりも登場人物を少なくして、物語の焦点を、イエスとヤイロ、そして長血を患っていた女に合わせています。またマルコ、ルカでは、女は衣のふさに触った瞬間、癒されたのですが、マタイでは、イエスが彼女を見て、声をかけた時に彼女は癒されたのです(22節)。イエスが言葉を持って関わってくださった時、彼女は癒されました。
この後、イエスはヤイロの家へ向かいます。そこに集まっていた群衆をイエス様は見ましたがが、それは、ただ認識した程度の事にすぎません。一方、長血を患っている女には、深い眼差しを向けて関わられたのです。このように、イエスは、近づこうとするあなたを見て、あなたに関わろうとしてくださいます。イエスが私達一人一人と深く関わってくださる恵みに感謝しましょう。
3.イエスの可能性を信じる
私達の願いは、いつも思い通りに叶うわけではありませんが、でもそれは、御心に適っているか否か、神の時なのか、まだ時でないのか、神がそれを成さるのか、成さらないのかであって、できるか、できないかではありません。神には不可能な事はないのです。けれど、私達は期待した事が叶わないと諦めてしまいがちです。でも、ヤイロも、長血を患っている女も、イエスの可能性を信じました。イエスは、私達にもっとイエスの可能性を信じる事を求めておられます。
私達は死を打ち破られた御方の手の中にある可能性を信じて歩む時、神の御業に与かる事ができ、何があっても全てを神にお任せして歩んでいく事ができる、大きな喜びと平安に包まれていく事ができる事に感謝しましょう。