主の身代わりの死を感謝する
イザヤ書53章1節~12節
…彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。…
先週はフィリピンのマニラへメトロ・ワールド・チャイルドの働きの視察に出かけて留守にしていました。今回視察した、新しくできたグループは、リーダーや奉仕者の中心が10代の若者たちでした。日曜学校の企画、運営、賛美リードやメッセージ、ゲームや悔い改めの祈りの導きなど、大人顔負けの素晴らしいもので大変感動しました。私たちは、彼らより人生経験が豊富な年長者というだけでなく、イエスに用いられ、実際に福音の種を蒔く者となりましょう。
今週は主の十字架を記念する受難週。救い主イエス・キリストが私たちの罪、心の歪み、魂の汚れを身代わりに背負って十字架の上で死んでくださったことにより私たちの罪は取り除かれ、裁きが終わり、神に愛される子どもとして救いと永遠の命を与えられて生きることができることを感謝しましょう。このことは絶対に忘れてはいけませんし、イエスの十字架の死と復活は、全ての人類が誠実さをもって向き合わなければならないことです。イザヤ書53章ではイエスの誕生のはるか前に救い主の到来を預言していました。私たちの救い主がどのような方であるかを4つのポイントで確認してまいりましょう。
1.苦しみ、痛みのすべてを体験された方
聖書の語る救い主は勧善懲悪のヒーローではなく、この世のありとあらゆる苦しみ、痛み、悲しみ、困難を体験し、苦しめられ、人からのけ者にされ、蔑まれ、他でもない、私たちも彼を尊ばなかった、苦難のしもべでした。私の人生を変える救い主は、私たちのところに下り、私たちの弱さ、足りなさ、悲しみ、苦しみ、病気、それらをわからない方ではなく、私たちの悲しみ、苦しみの全てを体験された方でした。
2.私たちの身代わりとなってくださった方
私たち人間は、彼が自分の罪のために罰せられたと思ったのです。しかし実際は、全く汚れのない神の子どもであったイエスが、私たちのとんでもない罪を背負ったがゆえに裁かれたのです。イエスは私たちの痛みや悲しみ、病気をただ背負われただけでなく、神に打たれ、神に罰せられ、苦しめられ、そして死んでくださった。それは他でもない、私たちの身代わりだったのです。
3.死の代価を払ってくださった方
イエスは死ぬまで私たちを捨てることもなく、私たちを責めることもなく、むしろ私たちの罪を黙って背負い、生ける者の地から命を絶たれました。なぜイエス・キリストの十字架が2000年間経ってもクリスチャンたちに尊ばれているかと言えば、私たちの救い主が、ただ言葉で励ましただけでなく、想像でもなく、事実として、私の罪の身代わりとなって死んでくださったからです。
4.十字架の死によって私たちを救った方
私たちの咎、罪、汚れ、いい加減さをイエスが担ってくださいました。イエスが自分の命を死に明け渡し、背いた人たち、罪人と共に数えられて、罪人の罪を背負って死んでくださったから、私たちの罪が取り除かれ、罪から贖われて私たちは義とされ、救われたのです。神はイエス・キリストの十字架の死を通して救いの道を切り開かれたのです。
このことを感謝して今日の聖餐に与りましょう。