人の命と神の恵み

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。   ヘブル人への手紙9章27節~28節

今日は合同記念会礼拝です。皆さんとのこの時間を、本当に有り難く、感謝して受け止めています。この礼拝を準備するに当たり、私の父と家内の父のことを思い出し、祈りました。私の父は、牧師であり、私の父親としての人生を生き、私に信仰を与え、牧師としての模範を残してくれました。家内の父は、軍人として国に仕え、この世の地獄を見、最後まで自分の理性と闘い、頑固でしたが、亡くなる半年前、文女姉の、イエス様を信じて、洗礼を受けようという言葉を受け入れ、穏やかな魂を与えられ、天国へと旅立ったのです。人生の現実と、それを超える神の救いがあることを素直に認め、受け入れた時に、魂が変わったのです。御一緒に、すでに召されたお一人お一人の魂を偲び、その頂いた恵みを感謝し、命の真理を頂きたいと思います。今日開きました箇所には、2つの大きな真実が語られています。

1.人間の命に関する真実

人は生まれて命を受けた以上、必ず死ななければなりません。そして同時に、死後、神の前に立ち、裁きを受けることが定まっていると聖書は語ります。人の命は、単に心臓が動き、呼吸をする医学的命だけではなく、魂、霊の領域があって、死後、神の御前で、どのような人生を生きてきたか、裁かれなければならない、人間の命に関する真実があります。時々、神様って証明できますか、と言う人がいます。科学が証明せずとも、人間は幽霊だとか霊だとか、死後だとか考えますね。これは、人間の命の中に、神様と向き合う霊的な要素が、生まれた時から、ちゃんとあって、目に見えない神と向き合わなければならない世界があることを示唆しています。

2.救い主イエス・キリスト

聖書は、罪の汚れは自分の努力や頑張りでは清められない、救われない、全ての人に救いが必要だと語ります。血を流すことがなければ、罪の赦しはないと語ります。そのため、命を与えて下さった神は、救い主イエス・キリストを送り、キリストは1度、私たちの罪のため、ご自分の命をささげ、十字架で死んで下さいました。2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる、と28節にあるように、イエスが再び来たりたもう、再臨の時、私たちを甦らせ、永遠の生命を与え、天の神の下で永久に、永遠の喜びをもって生きることができるようにして下さると約束しています。
人として、精一杯、真剣に生きる糸と、救い主イエス・キリストをお迎えし、神と向き合う信仰の糸、2つの糸が重なると、自分の努力や知恵だけでは与えられなかった祝福が与えられます。喜怒哀楽、様々の事が起こる私たちの人生、1つ1つが神によって救われ、贖われ、素晴らしい人生となります。そして、いつか必ず訪れる、神の裁きの前に立つ時、キリストの愛と救いによって、天国へと導き入れられ、永遠の生命を頂くことができます。すでに天に召されたお一人お一人も、ちょうど十字架が象徴しているように、人としての命に、神の恵みが重なった人生を歩まれました。さあ、皆さんも、その信仰にならって、人として一生懸命生きる生き方と、神の恵み、神の愛の物語を重ねて生きる人生を見つけてまいりましょう。そうすれば、死に対する恐れはなくなり、平安と永遠の生命の希望が与えられます。