飼い葉桶にまで降られた主!
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 ルカの福音書2章1節~7節
クリスマスもいよいよ本番。5日の神戸は、来て下さった方も恵まれ感謝でした。今週の土曜日の松山に続いて各地でもクリスマス集会が始まります。人生の荒波がどんなに激しいものであっても、いつも私たちの光となって共にいて下さるイエスを精一杯、愛を込めて伝えていきましょう。そして私たちの心の中にイエスを光として迎え、今日の聖餐式に臨みましょう。そうすることで、私たちは神の前に立つ一人の人として本当の命の輝きを持つことができます。
今日の箇所はお馴染みの物語です。ヨセフとマリヤが住民登録のためにベツレヘムに滞在している間にイエスがお生まれになるのですが、忘れてはならないのは、特に6、7節でのことです。「ところが、…宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。聖霊によりマリヤに宿ったイエスは馬小屋の飼い葉桶に産み落とされました。実際の様子はどんなものだったか想像してみましょう。それは温かくて麗しくてほのぼのとしたものではありません。家畜小屋です。臭くて薄汚い場所です。イエスがご自分の命を横たえられたのはそんな場所でした。
1.社会の底辺にまで降られた救い主
イエスは、救い主だからと光り輝く最高の場所にお生まれになったのではありませんでした。ルカ2章8、9節に「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」とあり、イエスの誕生のお祝いに最初にかけつけたのはその羊飼いたちでした。夜通し羊の番をして働く2000年前の羊飼いの身分は、社会の中でも最も低いものでした。イエスは世の中の底辺に来られ、そこからから人々を救って下さったのです。
2.人々の心の底辺にまで降られた救い主
イエスは、世の中の一番低いところに降られただけではありません。私たちの心の深い部分にまで来て下さいました。ピリピ2章6、7節「キリストは神の御姿である方なのに…人としての性質をもって現れ、…」、イエスは人々に対してご自分の心を一番低くされ、主人ではなく、奴隷の姿までとって仕える者としての心を持って来られました。そうすることで、私たちひとりひとりと向き合って下さったのです。
3.心の一番汚い所にまで降られた救い主
荒削りの木っ端で作られ、残った餌が腐ってドロドロの飼い葉桶の中にイエスはお生まれになりました。それは他人事ではなく、まるで腐りかけた飼い葉桶のような私たちの心の中に、イエスがご自分の尊い命を下さったということです。ローマ5章8節に「私たちがまた罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより」と書かれている通り、イエスは私たちが立派だったから来て下さったのではありません。罪人であり、神に背を向け、自分の人生さえ喜べず、疲れ果てた私たちのために救い主としてこの世に来て下さったのです。
飼い葉桶の中にまで降って来られ、救い主となって、どのような暗闇の中でも輝く光となって下さったイエスに感謝しましょう。この朝、私たちは、イエスに「私の心の飼い葉桶にもお宿り下さい。きれいな宿屋は準備できませんでしたが、私の飼い葉桶にどうぞお宿り下さい」と、イエスを素直に受け入れる者となりましょう。