神のいのちに連なる者
教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子、…エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。
ルカの福音書3章節23~24節、38節
今日は、合同の記念会礼拝ですし、夏は、私たち日本人にとっては、原爆や終戦、お盆の習慣などもあり、いのちについて考えることの多い時期ですが、今ほど、いのちが軽んじられる時代もありません。頻発する冷酷な殺人事件は、人とのつながりが薄くなり、人が何度でも生き返るゲームや、巧妙な殺人の方法を繰り返し教えるテレビや漫画の刑事物、サスペンスに子育てを任せてきた結果です。また、科学の進歩で、人間の生死も操れるかのような錯覚に陥り、複雑な倫理的問題が起こっています。
私たち人間は、いのちを操作できるほど賢くはないし、人は必ず死ぬのです。先に天に召された兄弟姉妹のお写真を拝見し、かけがえのないいのちとして私たちの人生に与えられた人々のことが鮮やかに思い出されます。すでに天に召された愛する人々から信仰の姿勢を学び、絶対者なる神との関わりの中でのいのちについて、今日の聖書の箇所、イエスの系図からしっかりと学びたいと思います。
1.人と連なるいのち
聖書の中心人物であり救い主であるイエスは、私たち人類の代表でもあります。ですから、単なる幻や、天から突然降ってきたのでもなく、ひとつの家系に属するものとして母マリヤを通して人として生まれました。もちろんイエスは「聖霊による身籠もり」であり、人間としての父を持ちませんが、このマリヤが結婚したヨセフの家系に属する者となりました。ここに記されているのは、そのヨセフの系図です。この系図は、いのちの連なりとしての現れであります。
同時にこの系図を遡ると、アダムの子…アダムは神の子(38節)と父なる神に至る系図となります。人類の代表イエスは、人のいのちの連なりの中で存在し、最初の人アダムにより神に至る、文字通り、神のいのちを私たちに与えるためにこの世に降ってきたのです。これを確認することで記念会の理解を深めることができます。私たちは、自分の都合や選択で今生きているのはなく、何十代も何百代も不思議と途切れず受け継がれたいのちの連なりの中でいのちを与えられています。ですから、私たちのいのちも皆に感謝し、しっかりと天国に召されるときまで生き抜くことが大切です。
2.神から与えられたいのち
神は最初のいのち、アダムを造りました。そのいのちが私たちにつながって、いのちを与えられていることを喜びましょう。科学が進んでも、いのちそのものを生み出すことはできません。それは神から与えられるのです。そして、神につながるいのちは、この地上でのいのちが終っても終りません。イエスの復活のいのちによって、永遠のいのちをいただき、召された方々と天において再会できます。
神と共にあるなら、何が起ころうと必ずハッピーエンドです。それがなければ、人間は必ず死で終るのです。しかし、いのちを生み出した神は、そのいのちの結末を悲しみや絶望に終らせるようなことはしません。神を信じ、天国で愛する兄弟姉妹と再会し、永遠に神のもとに住まわせていただく者になろうではありませんか。神との関わりの中で愛されていることを感謝し、もう一度神の永遠の世界の中で出会うことができるようにと祈りましょう。