この世の苦しみに打ち勝つ信仰
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。…神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ヨハネの福音書16章33節、ヨハネの手紙第一5章3節~5節
先週のバザーの日は、降水確率90%の予想を覆して素晴らしい天候が与えられました。全国的に大雨をもたらした雨雲が松山の上を避けるように通り過ぎていきました。まるで「仕切りの岩」(Ⅰサムエル23:28)のように、主が守ってくださいました。
この世には様々な患難がありますが、主イエスが「世に勝った」ので、主を信じる私たちも、この世の苦しみに打ち勝つことができるのです。
1.苦しみには意味がある
イエスを信じる信仰は、苦しみに意味があると信じる信仰でもあります。主の十字架の苦しみには意味があったからです。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造」られた方だからです(箴言16:4)。
人は、意味のない苦しみには耐えられませんが、意味のある苦しみなら耐えられるものです。「なんでこんなめに会うのか」と神様に文句を言う前に、「苦しみには意味がある、目的がある」と信じましょう。「私の苦しみはこのためだったんですね」と、その意味を知るとき、私たちはこの世に打ち勝ち、苦しみを乗り越えて進むことができるのです。
2.苦しみは苦しみで終わらない
苦しみに意味があるからと言って、私たちはずっと苦しみ続けるべきでしょうか? いいえ、違います。主は十字架の苦しみで終わらず、よみがえり、この世の罪と死の力に打ち勝たれた方です。主を信じる私たちは、十字架の苦しみの向こうに、復活の喜びを見るのです。試練と共に脱出の道があるのです。
苦しみがずっと続くと思った瞬間、苦しみは恐怖となり、抜けられなくなります。しかし、この苦しみの道の向こうに、喜びが待っていると知るなら、その道中までも楽しいものに変わります。苦しみの向こうに待っているものがある、希望があると信じる信仰は、この世に勝ち、苦しみを乗り越えるのです。
3.どんな苦しみの中でも消えない愛がある
主の十字架、それは人間の最も醜い罪の姿が現れた時でした。寄ってたかって救い主をなぶり殺す、そんな人間の罪の現実と、十字架の極限の苦しみの中でも、主の愛が消えることはありませんでした。だから、主を信じる私たちは、どんな苦しみの中でも見捨てられていません。愛されているのです。
なぜ、この世界に苦しみがあり、苦しみを引き起こす罪や悪、それを行なう者がいるのか? なぜ神は彼らの存在をゆるし、滅ぼさないのか?…
しかし、自分もその罪人の一人で、そんな私がゆるされ生かされているのです。なぜでしょう? こんな罪人の私をも愛する神様がおられるからです。神の愛は、この世の苦しみに勝つのです。
4.苦しみも命も全ては主のもの、主の恵み
主の大きな愛の中で、私たちは知るのです、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:8)。以前はこの世界に存在さえしていなかった私たちが、今、生かされているだけで感謝です。それを忘れ、生きているのが当り前になるとき、「なぜ、こんな苦しみに会うのか」と文句が出るのです。生きているから、苦しむこともできるのです。全ては主のもの、苦しみさえも感謝に変わるとき、私たちの信仰は、この世の苦しみに勝つのです。