キリストと共にある神の愛

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。        ヨハネの手紙第一4章9節~10節 

 

12月の最初の日を聖餐式で始められることは感謝です。日本中がキリスト抜きのクリスマスで浮かれていますが、クリスマスの主役であるイエスを伝える楽しいクリスマスとしましょう。年賀状を出している人々をぜひクリスマスの集会にお誘いしましょう。
今日の聖書箇所は、聖書の中でも特に有名な「神は愛である」という御言葉のある章です。クリスチャンでなくても愛が大切なのは分かっています。しかし、一般的に言われる愛は、人間のわがままに引っ張られがちで、しばしば自分の気持ちが優先します。それが満たされないと、傷つけられたと言って憎むような薄っぺらな愛です。聖書は本当の愛の定義と、愛である神が愛の裏付けとして私たちにして下さった事実を語っています。

1.御子イエスをこの世に遣わした事実</p>

クリスマスは、単に赤ちゃんのイエスがかわいいとか、子供が生まれるのは嬉しいから祝うのではありません。クリスマスをクリスチャンが2000年もお祝いしているのは、神がそのひとり子を世に遣わしたからです。
天地宇宙を造られた偉大な神の命が、この赤ん坊に溢れているのです。イエスは、実は単なる赤ちゃんではなく、闇の世界に光をもたらす命の固まりであり、イエスの誕生によって、罪深い闇の支配する世界に恵みの物語が始まろうとしていたのです。とてつもない命の可能性がイエスと共にあることを知りたいのです。

2.罪を清める供え物となった事実

この赤ん坊のイエスが、私たちの罪を清めるなだめの供え物として捧げられたのです(10節)。これは、私たちにとっては本当にありがたいことですが、大変恐ろしい事実です。イエスは、父なる神によってこの世に命をもたらすために遣わされただけでなく、罪ある者を裁く神の厳しい裁きを身代わりに受けるために、供え物として殺される運命の赤ん坊でした。
ですからクリスマスは、単に喜んで騒ぐのではなく、厳粛さや厳かさを感じなければなりません。そこにおられるのは、私たちの代わりに生け贄として死ぬ目的のために生まれた赤ちゃんです。感謝と同時に、申し訳ないという思いを持って悔い改めて、その恵みに感謝し喜びたいのです。

3.私たちを愛して下さった事実

「ここに愛がある」と聖書に書かれているように、本物の愛が、理屈ではなく具体化され事実となったのがイエスの到来です。愛する者のために命を捨てる以上の愛はないと聖書に書かれていますが、私たちにとってその愛は、神から発せられ、事実とされた愛です。このことを感謝しましょう。
私たちに命を与えるために神の救いを携えてこの世に飛び込んで来て下さったイエスが本当に現れた時、それがクリスマスなのです。イエスが自ら私たちを愛して、生け贄となって死ぬためにこの世に来られたキリスト(救い主)であることを知って、厳粛な思いで感謝してクリスマスを迎えましょう。
私たちの手の届くところ「ここに」愛があるという、この事実を感謝しましょう。