愛を取り戻そう

ヨハネの黙示録2章1節~7節

エペソにある教会の御使いに書き送れ。『…「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。…しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。…耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。…」』


 やなせたかしの妻、(のぶ)は、高知教会で洗礼を受けていました。高知教会は、1885年に発足し、5年後には600人が集っていました。教会やキリスト教が人々に対して大きな影響力を持っていたのです。キリスト教の精神を持っていた暢の影響で、アンパンマンも誕生したのかもしれません。現代の教会はその影響力を失いかけているのではないでしょうか。このヨハネの黙示録の2章3章では7つの教会に手紙が送られています。これは、教会の歴史を現しているとも言われます。つまり、最初のエペソの教会は、設立から数十年経ち、教会の教理は確立されたが、最初の愛が冷えてきた時代を現し、最後のラオデキヤの教会は、熱くも冷たくもない、なまぬるい終わりの時代の教会の姿、影響力がない状態だというのです。私たちは、恵みの震源地となって、もう一度人々や社会に対する影響力、すなわち愛を取り戻さなければなりません。なぜなら、4、5節に、初めの愛から離れてしまったので、悔い改めて愛を取り戻せと書かれていて、愛がなければ、教会ではないからです。3つのポイントを心にとめましょう。

1.愛されている自分であることを忘れてはならない

 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」(黙示2:2)とあります。「知っている」とは、神様の私たちへの愛の証しです。そして、7節には、諸教会に言われることを聞きなさい、とあるように、これは、エペソの教会だけでなく、すべての教会に言われているのです。何一つほめられていない、ラオデキヤの教会にさえ、「わたしは、愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」(黙示3:19)とあります。神は、愛される価値のない私たちを、一切を無視して愛してくださっていることを忘れてはなりません。

2.神と人とを愛することを忘れてはならない

 エペソの教会は、愛よりも教えや良い行いが大切になっていました。パウロは「…愛がないなら、何の値打ちもありません。…愛がなければ、何の役にも立ちません」(Ⅰコリント13:2-3)と語ります。イエス様は言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。…あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:37、39)。私たちは神様と人とを愛さなければなりません。ヤコブ2:8,14-16では、隣人を自分自身のように愛することが最高の律法であり、着るものや食べ物がない人に、言葉をかけても必要なものを与えないなら、何の役に立つのかと語ります。本物の信仰には、必ず愛の行いが伴うはずなのです。

3.愛することは自分を空っぽにすること

 エペソの教会が「初めの愛に帰れ」と言われたのは、彼らが空っぽ、無ではなくなっていたからです。イエス様に救われた時は、その愛に感動し、救われた喜びと感謝でいっぱいでした。知識や教えは大切ですが、それらが身についてきた時、愛を失っていました。すべてをお持ちの神の御子イエス・キリストが、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられた(ピリピ2:7)のです。それが愛です。私たちも自分を無にして人々を愛する者になりたいのです。そうすれば、人々に影響力を持って「恵みの震源地」となり、私たちの周りから神様の愛と恵みがどんどん大きな渦となって広がっていくのです。

 

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