イエスの名によって、歩きなさい

使徒の働き3章1節~10節

…すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。…すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。…


 今日は使徒の働き3章から御言葉を分かち合いたいと思います。美しの門という所に、生まれつき足の萎えた人が座っていました。そこにペテロとヨハネがやって来て、癒しを行うという素晴らしい奇跡が記されています。癒された男はおどり上がって神を賛美し、それを見ていた人々は驚きあきれました。これは決して、ただの過去の出来事ではありません。今も、この時代にも、私たちの国にも起こることなのです。私たちはこのことを信じ、期待を持って主に従う者でありたいと思います。

1.ペテロの変化

 イエスが捕らえられる前夜、イエスはペテロに「あなたは3度私を知らないと言います」と言われました。ペテロは「死んでも裏切りません」と言い張りましたが、結果その通りになってしまいました。ペトロにとって、自分がいかに愚かで無力であるかを思い知らされる出来事になったのです。しかし、ペテロは立ち直ります。「立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)というイエスの祈りがあったからです。後にペテロは次々と病める人を癒しますが、この大失敗があったからこそ、決して傲慢にはならず、主にすべての栄光をお返しする者に変えられていきました。ペンテコステの恵みを体験したあとも、「イエスこそ救い主、私たちがその証人です」と、大胆にイエスの名を語る者になったのです。

2.「私たちを見なさい」

 施しを求める男に、ペテロとヨハネは「私たちを見なさい」と言います。自分たちを証しとしていたのです。ローマ14:17にあるように、神の義は人を生かす義であり、生ける平和と喜びです。私たちは、日々の状況によって、愛したり赦したりできないことがあります。しかし、聖霊様は、いつも新しい愛と喜びを私たちの人生に与えてくださるのです。詩篇1篇に「水路のそばに植わった木のように…」とあるように、私たちは毎日この恵みを頂いて、周りの人にお伝えし、恵みを流していく者になりましょう。

3.イエスの御名の権威によって

 ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言います。私にあるもの、それはイエスの名、権威です。イエスの十字架、よみがえりを見た弟子たちは、イエスの名に権威があることをはっきりと知りました。また、その権威が自分たちに与えられていることを知ったので、「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と宣言して癒しを行うことができました。ルカ7章では、百人隊長がイエスの御名に権威があり、「おことばだけで、しもべは癒されます」という信仰を持っていたので、イエスは感心されました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)とあるように、イエスの名によって祈ることは、イエスの主権を認めることであり、ここに御国が来、癒しが起こるのです。

4.イエスの御名により祈る者となろう

 イエスの御名の権威が与えられた者として、その権威を用いて、御国を実現していきましょう。「この地で、人々が驚きあきれるような奇跡が私の周りで起こる」と信じて、イエスの御名によって大胆に祈る者となりましょう。教会内だけでなく、この御国が地域社会にも広がっていくように、祈りましょう。

5.イエス・キリストというお方―主キリストの存在!

私たちの求める救いは、どこにあるかわからない宝探しのようなものではなく、明確な場所があります。それは主イエス・キリストと共にあるのです。

6.お生まれになった―人生の歩みの中での事実!

救い主は人類歴史の中の事実となりました。イエス様は私の人生の歩みの中で事実となってくださるのです。

7.みどりごを見い出す―出会うことのできる主!

イエス様は探し求めれば出会うことのできる救い主です。永遠のいのちを証明された方が世の終わりまで私たちと共におられます。2000年前の救いと恵みの保証は今も変わりません。そのことを覚え、このクリスマス、感謝して歩んでまいりましょう。

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