十字架のキリストの打ち傷を忘れない

ペテロの手紙第一2章22節~25節

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。


桜の風情があふれる春の日々を迎え、今年も、イエス様の復活をお祝いするイースターが巡ってきます。クリスチャンの喜びの根源は、イエス様に救われ神の子とされたこと。聖霊によってこの地を力強く歩むことができ、地上での歩みを終えた時には、天の御国で永遠に生きることができる約束が与えられていることです。この十字架と復活の喜びを受け止め、本物のクリスチャンとして、死の力さえ打ち破る主の力をいただく者として堂々と歩みましょう。 今日の御言葉の著者であるペテロは、この手紙の中で、クリスチャンの土台、模範はキリストであると繰り返し語っています。その流れの中で、イエス様が十字架にかかられた意味が記されています。この箇所を通して、その意味を確認しましょう。

1.罪とは何ら関わりのない生き方!

イエス・キリストは人でありながら、真の神であられました。私たち人間と同じように見るのは間違いです。その誕生の経緯から生き方まで、罪や汚れとは無関係な聖いお方、真の神であり、十字架による処刑とは全く縁の無い御方です。本来ならば、自らの罪のために十字架で処刑されなければならないのは、私たちの方です。冤罪(えんざい)どころではありません。全く罪のないお方、神のひとり子としての清さを持っておられる御方です。イエスの十字架は決して起こってはならない処刑でした。その意味の深さをはっきりと知らなければなりません。

2. 人々の憎しみやあざけりを受け止められたお方!

イエス様は、人々が期待した軍事的革命家としての王にはなりませんでした。イエスに期待し熱狂していた人々は失望し、イエス様を憎み、罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を浴びせかけたのです。しかし、イエス様はそれらに言い返すこともなく、すべての憎悪に愛をもって応え、受け止められたのです。イエス様は、人間の発する最大限の罪深ささえ、受け止める覚悟と大きさを持った、救い主であることを感謝したいと思います。

3.私たちの罪やけがれを身代わりとなって背負われたお方!

イエス様は自ら進んで、全人類の罪を背負われました。私たちはどんなに人を愛していても、誰かの罪を代わりに背負うことはできません。私たちは自分の罪さえ自覚し、背負うことができない、いい加減な者です。しかし、イエス様は一人ひとりの最大限の、そして、全人類の罪を十字架で背負われました。それができたのは、彼が神であったからです。

4. ご自身の打ち傷で私たちの罪を赦し、病を癒やされたお方!

私たちの罪を、イエス様は代わりに背負い、処理してくれました。イエス様が、病の痛みや苦しみを私たちの代わりに背負い、この御方の打ち傷によって、私たちの罪は赦され、魂の救いのみならず体の弱さまで癒され強められるのです。 この1週間、イエス様の十字架の愛を知りたいのです。病の癒しを十字架のイエスの御名によって祈りましょう。不幸や呪いのすべてをイエス様が背負われたのですから、すべての苦しみ、病をイエスに委ねて解放されようではありませんか。彼の打ち傷によって私たちは癒やされました。この恵みを共に体験してまいりましょう。

5.イエス・キリストというお方―主キリストの存在!

私たちの求める救いは、どこにあるかわからない宝探しのようなものではなく、明確な場所があります。それは主イエス・キリストと共にあるのです。

6.お生まれになった―人生の歩みの中での事実!

救い主は人類歴史の中の事実となりました。イエス様は私の人生の歩みの中で事実となってくださるのです。

7.みどりごを見い出す―出会うことのできる主!

イエス様は探し求めれば出会うことのできる救い主です。永遠のいのちを証明された方が世の終わりまで私たちと共におられます。2000年前の救いと恵みの保証は今も変わりません。そのことを覚え、このクリスマス、感謝して歩んでまいりましょう。

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