主がどんなに大きなことをしてくださったかを伝えよう

マルコの福音書 5章18節~20節

イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。


ゲラサ人の地、デカポリス地方で多くの悪霊「レギオン」に取りつかれていた男が、主イエスによって、悪霊から解放され、救われました。主は彼に言われました、「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか…を知らせなさい」。 私も今日、主が私にどんなに大きなことをしてくださったかをお伝えしたいと思います。

1. 主が私にしてくださった事<救い>

私は子どもの頃、ある出来事をきっかけに、「自分は親から捨てられるくらい価値がない」と思い込んでいました。両親も色々つらくて大変な中、精一杯育ててくれていたのに、自分の事しか見えていませんでした。そんな私が高校生になって詩を書くようになり、大学生の頃には雑誌に投稿して掲載されることもあり、自分の存在が認められたような喜びを見つけました。でも、劣等感の裏返しで、高ぶって、友人たちを心の中で見下すようになっていました。ある日、友人との口論の中で、そんな自分の心にある醜い高ぶった思いがあふれ出て、友人は「二度と顔も見たくない」と言って、去って行きました。自分の心の醜さを思い知り、その友人に合わせる顔もなく、もう大学には行きたくない、家にこもって詩を書こうとしても、こんな汚い心の自分には詩を書く資格もないと思って、生きがいだった詩も書けなくなりました。もう死にたいと思い、ある夜、海に行って、死のうとしました。でも、死にきれず、部屋に戻ると、不思議に聖書を読みたい、と思ったのです。私の大好きなイギリスの天才詩人キーツ、彼は20代の若さで亡くなり、最期の言葉は「神様、ありがとうございます」。彼の内にあった「平安」が欲しくて、彼が信じた聖書を読みたい、と思ったのです。聖書を読む中で、神なんていないと思い、神様が見えていなかったのは自分の心が汚れていたからだと気づかされ、こんな汚れた私の心にも主は触れてくださり、きよくしてくださるとを知りました。そして、主が十字架で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と叫ばれた言葉に出会った時、涙があふれ、止めることができませんでした。そして、思ったのです。やっと本物の愛を見つけた! 私が欲しかったのは、これです。最後はみんな死で終る人生に意味なんてないと思っていたのに、生きる意味がわかった。死んでも無くならないものを見つけるため。それは、神様の愛。自分を殺そうとする者さえ愛し、そんな罪人の私たちのために身代わりとなって命をかけて罪を償い、死んでもなくならない永遠の命と幸せを与えてくださる神様の愛! 主は私に大きなことを、素晴らしい愛と救いをくださいました。

2. 主が私にしてくださった事<救われてから>

救われてからも、主は私に大きなことをしてくださいました。世にあっては患難があります。でも、主は全てを乗り越えさせてくださいます。愛する娘の死でさえも。天国は本当にあります。死を越えて私たちは天国で会えます。この信仰で本当に良かったと心から思っています。「死にたい、死にたい」と思っていた私の心に、今は「生まれてきて、よかった。神様、ありがとうございます」という感謝があふれています。主は、私に、私たちに、大きなことをしてくださいました。この喜びを伝えましょう。主はこれからも、さらに大きなことをしてくださいます!

3.主がどんな時も見ていてくださる!

自分の力で行動しようとするのは単なる道徳です。私たちがなぜ善を行うことができるかというと、イエス様の模範があるからです。

イエス様は私たち罪人を救うために、身代わりとなり死んでくださった。なんという善、愛、神の御業でしょう! このイエス様の十字架がお手本なのです。

このキリストの十字架の愛を知り、今、生かされている私たちの命は、イエス様によって与えられている命です。ですから、この命を通して事を起こしていきましょう。

12節に「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」とあります。義人とは、弱くても神の御心にかなうことをやってみようという人を指します。

主は見ておられます。悪から離れ、善を選び取り、行動していく時に、主は私たちの心の根を見ておられ、祈りを聞いておられます。そして、弱く不完全であっても、栄光から栄光へとキリストに似た者に成長させてくださいます。キリストの十字架の恵みを頂き、この十字架に倣い、前進してまいりましょう。

4. 一つ心で共に過ごす毎日!

46節に「毎日、心を一つにして宮に集まり」とあります。2千年前の彼らは教会も聖書も、クリスチャンの習慣も、何も定まっていませんでした。しかし、彼らには、一つ心で共に過ごす、素朴な毎日があったのです。

今、世の中は“多様性”の時代と言われています。この言葉を、自分の身勝手やわがままを助長する論理として使ってしまうと、社会はバラバラになってしまいます。

教会は一つ心です。共に祈り、賛美し、奉仕しながら活動するのです。私たちは、一つ心で、キリストの体として、頭であるキリストに従って行く者でありたいと思います。

5. 捧げ物で支えられた活動!

45節に「必要に応じて、みなに分配していた」とあるように、彼らは教会や貧しい人のために捧げることを躊躇しませんでした。

パウロが世界宣教に行く時に、アンテオケの教会が捧げたように、福音を宣べ伝えるため、弱い人を支援するために捧げたのです。

信仰は心の中の理想論ではなく現実です。実際の社会の中で生きて働く信仰の現れが教会です。この教会を共に支えていけることを感謝します。

5つの柱を生活の基本とし、シンプルなクリスチャンライフを復活させ、恵まれてまいりましょう。

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