御霊による宣教
使徒の働き16章6節~10節
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。…ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
今日の聖書箇所は使命感に燃えて、時には厳しい現実と向き合わなければならないような宣教の旅をしたパウロたちの話から3つのポイントを確認したいと思います。
1. 御霊に導かれる宣教の働きをしよう!
6節「聖霊によって禁じられた」、7節「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」とありますが、人間的な思いでごり押しをしない、自分の力でこじ開けようと一生懸命になりすぎないことです。自らの力で状況を推し進めることは聖霊の働きではありません。パウロたちはアジヤに向かおうとしていたが、聖霊によって禁じられたのです。それはパウロたちがアジヤに向かうことができない状況が生じたと考えられます。パウロの健康上の問題かもしれませんし、フルギヤ・ガラテヤ地方において彼らの伝道によって救われる人々が待っていたのかもしれません。御霊が禁じたということは御霊に導かれていることであって、御霊の導きによって彼らは宣教の旅を続けていたのです。 2026年の5月に開催する「愛と希望の祭典・四国」のために教会訪問し、ビジョンを共有し、共に祈り、協力を働きかけているところです。先週は訪問を計画していた教会から日程変更の連絡があり、思ってもいなかった別の教会へと導かれ、私自身も聖霊に導かれて大きな恵みをいただいたことを感謝しました。
2. 御霊が与えてくださるビジョンを受け止めよう!
9節「ある夜、パウロは幻を見た」とあります。聖霊は私たちに幻を見させるのです。幻とはビジョンであり、神様が私たちに見させてくださる将来の展望です。そのビジョンは人が理解できないような突拍子もないことではありません。人の考え、思い、願いをはるかに超えた大きなスケールで聖霊によって私たちにビジョンとして与えられるのです。パウロたちはアジヤをくまなく宣教する計画を立てていましたが、幻として与えられたのは、マケドニヤ人が助けてほしいと懇願するものでした。聖霊は私たち皆に注がれています。一人一人に与えられているビジョンがあるのです。あなたにとってのビジョンはどのようなものでしょうか。私たちはビジョンをしっかりと受け止める者でありたいと願います。
3. ビジョンを実現するために行動する者であろう!
10節「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信した」とあります。この確信とは、神が幻をパウロたちに見させ、自分たちのこれから行く先の予想図を描かせ、その予想図に向かって行動を起こさせたのであります。私たちも与えられたビジョンが将来の予想図として現され、その予想図を事実とするために行動しなければならないのです。まず一歩、踏み出してみましょう。家族や友人知人たちの救いのために祈り始め、証しの機会や伝道のチャンスを逃さないこと、聖霊様は必ず伝わる言葉をもって私たちを用いてくださいます。感謝して行動しましょう!
4. 一つ心で共に過ごす毎日!
46節に「毎日、心を一つにして宮に集まり」とあります。2千年前の彼らは教会も聖書も、クリスチャンの習慣も、何も定まっていませんでした。しかし、彼らには、一つ心で共に過ごす、素朴な毎日があったのです。
今、世の中は“多様性”の時代と言われています。この言葉を、自分の身勝手やわがままを助長する論理として使ってしまうと、社会はバラバラになってしまいます。
教会は一つ心です。共に祈り、賛美し、奉仕しながら活動するのです。私たちは、一つ心で、キリストの体として、頭であるキリストに従って行く者でありたいと思います。
5. 捧げ物で支えられた活動!
45節に「必要に応じて、みなに分配していた」とあるように、彼らは教会や貧しい人のために捧げることを躊躇しませんでした。
パウロが世界宣教に行く時に、アンテオケの教会が捧げたように、福音を宣べ伝えるため、弱い人を支援するために捧げたのです。
信仰は心の中の理想論ではなく現実です。実際の社会の中で生きて働く信仰の現れが教会です。この教会を共に支えていけることを感謝します。
5つの柱を生活の基本とし、シンプルなクリスチャンライフを復活させ、恵まれてまいりましょう。