主の救いを妨げるものは何もない

サムエル記第一 14章6節

ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。

「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。

たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。

大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」


今日の聖書箇所は、ダビデの親友ヨナタンの信仰告白の言葉です。ヨナタンはこの信仰によって、道具持ちの若者とたった二人でペリシテ人の最前線に乗り込んで、大勝利の突破口を開いたのです。

1.主の救いを妨げるものは何もない!

ヨナタンは信じました、「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」と。私たちはクリスチャン人口が1%弱の日本で、「救いは難しい、妨げるものがいっぱいある」と思い込んでいないでしょうか。しかし、聖書は、主の救いを妨げるものは何もない、と約束しているのです。私たちを救うのに、神様の側には何の問題もないのです。しかも、その神様が私たちの味方となって助けてくださり、救ってくださるのです。主の救いを妨げるは何もないのです!

2.私たちの弱さは問題ない!

私たちを救うのに、神様の側には何の問題もないとしたら、何が問題なのでしょうか。私たちの不足・弱さが問題なのでしょうか。いいえ、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても」問題ないのです。私たちの不足・弱さは問題ないのです。私たちの弱さ・小ささが、大いなる神様の救いの業を妨げることができると思い込んでしまうことが問題なのです。サウル王は、預言者サムエルの到着が遅れて、味方の兵士たちが去っていくのを恐れて、失敗しました。兵士の数の少なさが、主の救いと勝利を妨げると思ってしまったからです。しかし、ギデオンはわずか3百人の兵士で、13万5千人のミデヤン人に勝利しました。兵士の数の少なさが、主の救いと勝利を妨げることなどないと信じたからです。モーセの手には一本の杖しかありませんでしたが、それで紅海を真っ二つに分け、出エジプトの大いなる救いの業が現わされたのです。一人の少年の手には5つのパンと2匹の魚しかありませんでしたが、イエス様に用いられて、5千人の給食の奇跡が現わされたのです。私たちの弱さ・不足は問題ないのです。「金銀はない」、しかし、「私にあるもの」、イエス・キリストの御名があるからです(使徒3章参照)。

3.主と共に歩き出す!

主が共におられるなら、何も問題はないのです。しかし、主が共におられると信じられない時、どうすればよいのでしょう。実は、ミデヤン人の支配の下で苦しんでいた当時のギデオンもそうだったのです。しかし、主が共におられると信じて、一歩踏み出した時に、本当に主が共におられるとわかったのです。

主が共におられると信じて歩き出している「愛と希望の祭典・四国」の働きも、そして、私たち一人一人の人生にも、何ものも妨げることができない、止めることができない、主の救いの業が、幸せをもたらす恵みの業が始まっていきます。疑いや不安、恐れを抱え込んで、ただ立ち止まったままでいないで、さあ、一歩踏み出しましょう、主が共にいてくださると信じて、歩き出しましょう! そうすれば、わかるんです。立ち止まったまま、主よ、なぜですか、どうしてですか、と問い続けていた間はわからなかったことが、わかり始めるんです。主が、私と一緒にいてくださる、ということがわかるんです。主と共に歩き出しましょう! 私たちの弱さは関係ありません。主がお救いになるのに妨げとなるものは何もないのです!

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