二倍の祝福
イザヤ書40章1節~2節
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
今日の聖書の箇所イザヤ書40章と直前の39章との間には、大きな区切りがあります。
39章では、アッシリアに奇跡的に勝利した後のヒゼキヤ王の失敗について語られています。預言者イザヤはバビロン捕囚の預言をしますが、ヒゼキヤ王は、自分が生きている間は平和で安全であればよいと考え、自分の傲慢の罪を悔い改めず、そして、この100年後にバビロン捕囚は起こります。
40章には、ヒゼキヤの時代から170年後の、捕囚の終わりとエルサレム再建が預言されています。バビロン捕囚が起きるはるか前に、神は捕囚後の大きな希望について語ったのです。
しかし、聖書には、神の祝福は30倍、60倍、100倍の実を結び、祝福は千代にまで及ぶと言われているのに、なぜバビロン捕囚後の祝福は2倍なのでしょうか。それは、やっとエルサレムに帰ってくるイスラエルの民の信仰が、まず2倍の祝福しか受け止められないからではないしょうか。
2倍の祝福を受けるために3つのことをお話ししたいと思います。
イザヤ40章を引用したバプテスマのヨハネは「荒野に呼ばわる者の声」として悔い改めることを説きました(ルカ3章)。
私たちが恵みを受け取る土台には、いつもイエス様の贖いがあります。誰一人としてキリストを通さずに神様の前に出ることはできません。高ぶった心を砕いていただき、神様からの祝福を大胆に祈り求めましょう。
私は、日本のキリスト教会に10倍の祝福のリバイバルが来ることを期待しています。
2.二倍の祝福を受ける根拠は神様の御言葉を握ること
2倍の祝福を受け取る根拠は聖書の言葉の中にあります。私たちが信じる神の御言葉は、本当の約束であり、けっして裏切ることはありません。
しかし、それを受け取る信仰が必要です。一人一人に今必要な御言葉が語られています。御言葉を信じ、この言葉を本物だと受け取っていきましょう。
3.高い山に登り、力の限り声をあげ、旗印を明確にする=目立つ存在になる
私は自分自身を、永田町に遣わされた宣教師だと思っています。マスコミや同僚の国会議員から、信仰や聖書について驚くほどたくさん聞かれます。
ローマ書10章に「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」とあります。
教会に限らず、あそこに牧師がいる、クリスチャンがいると、町の人々が知ることが大事です。
「あなたがたは、世界の光です。…そうすれば、家にいる人々全部を照らします」(マタイ5:14-15)。
あなたが今いる場所は決して偶然ではなく、主が最適な人を最適な場所に遣わされたのです。
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」(ローマ10:15)。
立派な「口」ではなく、従って行く「足」が大切なのです。
コロナの影響で全国の自治会やPTA等の「共助」が弱っている時、地域の人たちにアガペーの愛をもって仕えていく教会への期待が高まっています。小さな教会の働きを主が用いて、日本の社会の破れを繕い、癒してくださいと祈りましょう。
人の力や努力では続かない働きですが、力と愛と慎みの霊である聖霊様の力をいただいて前に進んでまいりましょう。
4.神の義が現れる一人一人となること!
神様が与えてくださった救いが、どれほど素晴らしいか、神の義が現れるために、人生を通して証し人となりたいと思います。
この人は弱い人だったけれど、喜びや強さ、揺るがない思いを持って生き生きと歩んでおられる、元気で愛にあふれている、変えられたと公に思っていただくようになることです。
イエス様を信じて生きることは本当に素晴らしいと、私たちが、罪人を救う神の義のすばらしさを現す証し人として用いていただきましょう。