主キリストの御名によって歩む
使徒の働き4章13節~22節
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。…そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。…
日々の暮らしの中で、困難、試練は様々にやって来ます。その度に一喜一憂するのではなく、クリスチャンとして魂の目を開いて、何があってもいつまでも変わることのない神の恵みに目を留めて信仰を働かせる生き方を自分のものとしましょう。
四つの福音書を中心にして、聖書は、神の御子であるお方が人となってこの世に現れ、神の愛を現し、自ら人々の罪を背負い十字架にかかり罪の贖いを成し遂げて下さったという福音を語っています。
そして、イエスのご生涯を思う時に、癒しは特別に価値あるものとして描かれていることを思い起こしたいのです。癒しは、イエスの存在から切り離すことのできない尊い神の恵みの御業の現れなのです。
今日の聖書箇所は、三章の冒頭部分から長く続くエピソードの一部分です。ペテロとヨハネが神殿に上って祈ろうとしている最中、「美しの門」の傍らで足の不自由な物乞いに声をかけられました。
彼らが男に目をとめて、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取るやいなや、その男が立ち上がって歩き出し神を賛美して神殿に入っていったのです!
この出来事で大騒ぎになったので、指導者たちは暴動が起こるのではないかと不安になり、騒ぎを収めようとして調べると、ペテロとヨハネが原因だとわかり、彼らを捕まえて取り調べをする場面が、今日の箇所です。
3つの信仰のポイントを確認したいと思います。
癒しの奇跡が起きた出所はわからないが、調べれば調べるほど、ペテロとヨハネが、無学、無教養の普通の田舎者で、彼らの人生で変わった出来事と言えば、十字架で死んだナザレのイエスと一緒にいた弟子だったということがわかってきた、と聖書は語っています。
あなたは、イエスの癒しをどこまで真剣に信じますか? ここで取り調べをした人々も迫害者たちも、癒しの業が起こった事実は認めていることを忘れてはなりません。信仰者である私たちは、少なくとも、そこに起こっている事実を認めようではありませんか!
癒しが起こるかどうかを論じることをやめて、理屈では説明できない御業を起こして下さる神の恵みに感謝しましょう!
2.いやしの事実の受けとめ方が重要!
指導者たちは、癒しは否定できないが、これ以上イエスの名によって語らないように、癒したりしないようにと彼らを戒めました。
けれど、ペテロとヨハネは神に従い、自分の体験を語り続けると宣言したのです! 同じ癒しの事実がありながら、どう信仰を働かせるかは、全く違っていたのです。
あなたはどちらを願いますか? 癒しは聖書の中だけだと思う残念なクリスチャンになってしまわないように。むしろ私たちは、聖書に記されている約束や奇跡の事実をそのまま受け継ぎ、主の御名を告白すれば癒されることを実体験しましょう。
3.主の証し人としてぶれることなく生きる!
私たちは、聖書をそのまま信じています。イエス・キリストの御名で祈る時、イエスの力によって今も、病める人が癒されることを体験しましょう。
そして、主の御業、主の福音の恵みの証し人として、ぶれず迷わず生きていきましょう。
4.世界にただ一つの特別な御名!
世界中には色々な人や物の名前がありますが、私たちを救い、いやすことのできる名前は、イエス・キリストの御名しかない、とペテロは宣言しました。
名前は単なる記号ではなく、その人の本質を表します。イエス・キリストが救い主として成し遂げた神の救い、いやし主の力が、イエス・キリストの御名を唱える者たちに与えられているのです。
コロナ禍の3年間に終止符を打って、自由であるべき社会生活を取り戻しましょう。「コロナ」という名に支配されるのではなく、イエス・キリストの御名を信じる者でありたいと思います。
5.生まれる前からの神の選び
救い主イエス・キリストと出会い、クリスチャンとされたことは、とてつもなく大きな恵みです。私たちは、生まれる前から選ばれ、神様のビジョンが備えられた特別な存在なのです。
困難の中で自分を過小評価せず、神から与えられたビジョンに立ち戻りましょう。信仰により、本来の自分へと原点回帰して、生き生きとした力強い歩みを取り戻しましょう。(エペソ1:3-7)