主キリストの救いと共にあるもの

ペテロの手紙第一2章22節~25節

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。


早くも一月後半になっていますが、2023年の実生活の中にイエスが力強く働いてくださることを共に体験してまいりましょう。

たとえ試練困難が襲ってきても、イエス様が共におられ、私たちを守ってくださるので大丈夫です。いろいろな他の道を考えるのではなく、神様が守ってくださる!という一択で進みましょう。

今の世の中は、多様性が保証され、たくさんの選択肢がある幸せな社会です。でもだからこそ、その中でイエスと共にあるという一番価値のある選択をして、人々へもクリスチャンとしての信仰を証ししながら前進してまいりましょう。

今年のテーマは、「本来の自分らしさへの原点回帰」。もしかしたら、コロナ禍の中、あなたの信仰が傷ついている部分があるかもしれません。だから、本来持っていたのびやかな信仰を取り戻し、癒されてまいりましょう!

今日の聖書箇所で、ペテロが、信仰の焦点は一択、いつもイエスを模範としイエスに目を注ぐことが鍵です、と語っているのです。癒しの礼拝で励ましとなるメッセージがここにあります。癒し主であるイエスのことを四つのポイントから確認します。

1.私たちの罪を背負われ苦しまれた主!

イエスは、全きお方として私たちの模範になられただけではなく、私たちの罪、弱さの身代わりとなり、十字架にかかって苦しまれた御方であることを決して忘れてはなりません。

イエス様との関わりを、その始まりであるクリスマスを祝って終わりではなく、私の罪を背負われて十字架で死なれたという所まで持ちましょう。

イエスは単なる模範ではなく、私たちの罪という部分に接点を持ち、それを十字架での死で贖ってくださったという繋がりのあるお方だということを感謝しましょう!

2.私たちは罪から(あがな)われ救われた!

イエスが十字架で死なれたことにより、罪深い私たちが死に、罪が取り除かれて救われました。同時にイエスの持たれていた命で、私たちが、神の子ども、義なる者として生きることができるようになったのです。

私たちはイエスによって罪清められて、救われた者とされていることに感謝しましょう!

3.救いと共に不可分に存在する癒し!

救い主を通して与えられた救いは、単なる霊的な話で終わることなく、病の癒しに繋がって語られているのです。救いと癒しは共に現されていく、この恵みが与えられていることに感謝しましょう!

キリストの打ち傷のゆえに私たちが癒されることは、聖書のいくつもの箇所に記されています(参照イザヤ53:5、マタイ8:16-17)。与えられている救いと共に、不可分で病の癒しが存在するのです。

4.救い主と共にいることの幸い!

神から離れていた者が、イエスと共にいられるようになったことは、何と幸いなことでしょうか! 聖書の語る救いは、日本人の好きな悟りや道徳や倫理観的な教えではなく、神が共におられるから、私たちは、安心して平安でいられるということです。

弱い自分でありながら、神が共におられるから大丈夫! そして、その救いを受けた者として、当然癒しも体験できます。イエスの癒しをしっかりいただきましょう。

5.生まれる前からの神の選び

救い主イエス・キリストと出会い、クリスチャンとされたことは、とてつもなく大きな恵みです。私たちは、生まれる前から選ばれ、神様のビジョンが備えられた特別な存在なのです。

困難の中で自分を過小評価せず、神から与えられたビジョンに立ち戻りましょう。信仰により、本来の自分へと原点回帰して、生き生きとした力強い歩みを取り戻しましょう。(エペソ1:3-7)

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