私たちを友と呼ばれる主
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
今日は聖餐式の礼拝です。単に儀式や習慣だからというのではなく、パンをいただく瞬間も、イエス様が私たちの内に宿り、どんな時も私たちと共にいてくださる親密さを体験しましょう。
ぶどう酒をいただく時、神の御子であり救い主であるお方が、私たちの罪のために十字架にかかって血を流して死んでくださり、私たちを救い、私たちの命にぴったりと寄り添ってくださる深い愛を心から喜びたいと思います。
今、世界中を揺るがしているロシアとウクライナの戦争の原因は、プーチン大統領一人の決断と固執、不信感にあると思います。
人を愛し信じることができない孤独、孤立。世界で最も権力のある人物の一人でありながら、彼を本当に愛し、人格的な交わりを持って向き合い語り合う友がいないのです。
今日は、今年のテーマ“シン”の9つ目“親”。親しみ深さ、親密な関わりについて考えましょう。クリスチャンになった以上、孤独ではありません。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)とイエス様は言われます。
究極の親密さをもって私たちに接してくださるお方に感謝しましょう。春を迎えて、家族や学校や職場で不安や孤独を感じる人も出る季節ですが、主が私の友となり、人生を共に歩んでくださることを忘れてはなりません。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)とあるように、まことのぶどうの木につながっている枝には、いのちの流れがあり、やがて実を結ぶと語られます。
また「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」と神様の愛が具体的にはっきりと語られています。
今日は救い主イエス・キリストが私たちを愛して、個人的に親密なかかわりを持ってくださっていることを、3つのポイントで押さえておきましょう。
1.「友」と呼んでくださる親密さ
単に知っているだけでなく、神の御子である救い主イエス・キリストが、私たちのことを、しもべ、弟子、従者ではなく「友」と呼んでくださるのです。どれほどの個人的、人格的、心と心の結びつきでしょう。心から感謝しましょう。
2.命まで捨ててくださる「友」
私たちのために命さえ捨ててくださった救い主イエス・キリストです。私たちの人生を振り返って、その救い主と「友」として出会えたことは、大きな幸せで、感謝したいと思います。
2000年間続いている聖餐式において、毎回思い出さなければならないことは、宗教としての儀式や論理、理屈ではなく、救い主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった事実なのです。
3.すべての真理を教えてくださる主
父なる神から御子イエス・キリストに教えられ伝えられたことは、余すところなく私たちに教えてくださいます。隠し事がないのです。神の御心を行う者は、「わたしの家族」であるとまで言ってくださいました。
イエス様は、人間関係において一番親しい関係、「友」「家族」としていつも寄り添ってくださることを忘れないでください。この3月も、神の約束に従って、心で信じ、口で告白して、主を見上げて前進してまいりましょう。
4.人の覚悟を超える神の恵み
一番強いのは神の愛と救いです。彼らはすぐに王の怒りを買って炉に投げ込まれましたが、王には、炉の中に4人の人が見え、驚いて彼らを炉から出てこさせると、彼らは完全に守られていました。そこで王は、「このような神はほかにいない」と認め、畏れたのです。私たちの限界を超えたところで、「それでも神は助けてくださる」という体験をして、深められた、信仰の極意を目指そうではありませんか。損得勘定ばかりの薄っぺらな信仰者ではなく、神を愛し、人を愛し、イエスの御心に適う者になりましょう。
5.永遠のいのちに到達する
Ⅰコリント13章13節に、いつまでも残るものは信仰と希望と愛だと書かれています。この世とこの世に属するものは全て過ぎ去り滅びます。神様の永遠のいのちに繋がるものだけが残るのです。信仰が働いていると、生きながらにして永遠のいのちの約束をいただいているのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」。信仰を持って前進しましょう。