捜してくださる方

ルカの福音書15章1節~7節

…罪人たちがみな…近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは…言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」そこでイエスは…話された。「…羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら…『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。…ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


昨日の市民チャリティークリスマスは、大変恵まれました。「賛美やメッセージに心が温かくなりました」、「クリスチャンの落語が楽しかったです」と、喜びの声がたくさん寄せられていることに感謝します。今日は特別バージョンとして、安達隆夫先生に落語とメッセージを語っていただきます。

1.捜す側か、捜される側か

この箇所を読むとき、私たちは羊を捜す側ではなく、捜される側であることに目を留めなければなりません。迷子の羊のように闇の中に生きていた私たちを主が捜してくださったのです。

私は20年前に初めて教会に参りました。それまでは、自分が良いと思うことが全て正しいかのように、自分勝手に生きていました。

昨日、万代先生が「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネ1:5)」と語られましたが、まさに闇の中にいた私が、光であるイエス様に向かって歩むことができるようになりました。私たちは知恵があって教会に来たのではありません。

99匹を置いてでも、迷った1匹を捜してくださる優しいイエス様に私たちは見つけられたのです。

2.救われた喜びを忘れない

皆さんは、光であるイエス様が、私を闇の中から救い出してくださったという、クリスチャンとなった時に抱いた喜びを今も心の中に持っていますか。イエス様が信仰の中心だったはずなのに、いつのまにか、自分自身が中心になっていないでしょうか。

アドベント第三週に入りました。クリスマスは、イエス様がお生まれになったという過去の出来事、ただの誕生祝いの時ではありません。イエス様に対する私の思いを、もう一度新たにする時です。

聖書は「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と語ります。キリストの愛は、変わらないのです。

変わってしまうのは、私たちの方です。いつのまにか神様の愛が当たり前となり、感謝の足りない者となってしまいます。

私たちは救われてクリスチャンとなりましたが、いつのまにか人を傷つけ、不信仰な行ないや言葉を語ってしまいます。救われてもなお、罪人なのです。

私たちはこのクリスマスに、救われた喜びを持ち続けているのか、私の人生の真ん中にキリストがおられるか、もう一度考えたいのです。

3.神様の愛を忘れない

こんな詩があります。「神様、私にとって1番目は、やりたいことです。2番目は、やらなければならないことです。3番目は、神様に会うことです。…神様は、私にとって3番目です。難しいことが起きた時も、神様は私にとって3番目です。…私と1番近くにいるのは、自分自身です。…ところが、神様にとって私は、1番目です。何があっても、私が呼び求めればいつも助けてくださいます。…誰も私のそばにいないと思う時も、私のそばに来て、慰めてくださいます。神様にとって、私はいつも1番目です。神様、私も、あなたを1番に思って生活したいです。助けてください。イエス様の御名によって祈ります」。

神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃってくださっています。あなたは、1番愛されていることを忘れてはいけません。どんな問題が起ころうとも、自分は愛されているのだということに目を向けていただきたいのです。

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