患難を希望に変える神の愛
ローマ人への手紙5章1節~5節
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、…この恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
世界的に広がる新型コロナウィルスによる不安、恐れ…、「世にあっては患難があります」と主イエスは言われました(ヨハネ16:33)。しかし、患難は患難で終わらないのです。そこから「約束のものを手に入れるために必要な忍耐」(ヘブル10:36)が生まれます。さらに練られた品性が生まれます。それは「精錬」を意味します。金や銀の鉱石が火で精錬されて純粋な金や銀となって輝くように、患難を通して、余計なものが取り除かれて、どうしても必要なものだけが残るのです。信仰が精錬されて、ただ主にのみより頼む人に希望が生まれます。主は望みの神だからです。患難は希望に変わるのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
1.神の愛
神は私たちを「宝の民」として愛し(申命記7:6他)、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われるのです(イザヤ43:4)。この神の愛を本気で信じるとき、私たちの内に、生きる価値、生きる希望が生まれます。私たちは、いてもいなくもいいような存在ではありません。「自分なんて要らない…」、そんなことはありません。神様の愛の中で、「あってよかった」、「いてくれてうれしい」という存在なのです。この神の愛を心のど真ん中に受け入れるとき、私たちの人生に起きる全ての出来事、患難も苦しみも悲しみも「あってよかった」と言えるのです。「あの患難があったから、今の私がある」と言える日が来るという希望があるのです。
神様の愛は不思議です。私たち人間の理解を超えています。たとえば、もしも私たちが1円しか持っていなくて、その1円をなくしたら、必死で探すでしょう。しかし、800円持っていたら、いえ、8万円、800万円、80億円も持っていたら、なくした1円を探すでしょうか? さらに、その1円を取り戻すために、残りの79億9999万9999円を差し出すとしたら…、そんなことはありえないでしょう。しかし、主は、80億人近いこの世界の中で、たったひとりのあなたを見つけ、宝物のように愛してくださっているのです。そして、80億円どころではない、この地球、いえ全宇宙よりも尊いご自身のいのちを十字架で惜しげなく与えてくださったのです。私たちの、あなたのいのちを救うためです。そんなあなたを主が患難の中で見捨てられるはずはありません。必ず救われる希望があるのです。もはや悲しみ、叫び、苦しみもない、もう泣くことはない、主が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる希望があるのです(黙示21:21参照)。神様の愛の中で、私たちには、生きる価値があり、生きる希望があるのです。
2.私たちの愛
そして、神の愛を心に注がれて、私たちも愛するのです。患難の中で、私たちを苦しめるもの、悩ませる人々をも、「愛します」と言うのです。神様に文句や不平不満を言うのではなく、「主よ、あなたを愛します」と言うのです。そのとき、希望の光が射し込んで、全てが変わり始めるのです。患難や迫害をもたらす人々さえも愛し、そのためにとりなして祈った、ステパノやパウロ、多くの信仰者たちの祈りがあったのです。だから、この世界は変えられ、救われてきたのです。この希望を、愛を、私たちも受け継いでいくのです。患難は、希望に変えられるのです!