生きることはキリスト・死ぬこともまた益!

ピリピ人への手紙1章20~21節、ローマ人への手紙6章5節~11節

…私が…恥じることなく…大胆に語って…私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
…キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。…キリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。…自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。


昨日の広島での集会から、私たちの教会のクリスマス集会「メリエストクリスマス」が始まりました。私たちは、クリスマスのチャンスをとらえて、救い主であるイエス様をお伝えしていきましょう。
先週、アフガニスタンで人道支援に取り組んでおられたクリスチャンである中村哲さんの訃報のニュースが伝えられました。その時、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とパウロが語った言葉が思い出されました。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて救いを得たときに、生きることと死ぬことという死生観が、イエス・キリストによって大きく変えられていることを受け止めてほしいと思います。2つのことを確認しておきましょう。

1.クリスチャンとして死ぬこと

生きている私たちの命は、何に繋がれていますか? イエス・キリストに繋がっています。そしてキリストも、死と一つに繋がっているのです。イエス様を信じている者は、イエス・キリストの死に繋がれていて、私たちは罪に対しては死んだ者になるのです。イエス・キリストによって罪に死んだ私たちは、神に対してはキリスト・イエスと共に生きるようになるのです。私たちは、死ぬことへの新しい感覚が与えられていることを感謝しましょう。
イエス様の愛やよみがえりの力、救いを知らない人々は、死ぬことに恐れを抱きます。ですが、クリスチャンとして死ぬことを理解している私たちは、幸いです。このクリスマスに、神のひとり子であるイエス様が天から下って人となられました。そして私たちの罪を背負われて十字架で身代わりの死を遂げられました。イエス様が、私たちの命と繋がってくださることによって私たちの罪が赦され、イエス様の死と繋がれていることによって、死の向こう側に新な永遠の命があることを私たちは知っています。
クリスチャンにとって、死は忌み嫌うものではありません。裁きの座に立ったとしても、イエス様を信じている者は神の子どもとされ、罪が赦され、永遠の命をいただくことができる約束を与えられていることを感謝しましょう。

2.クリスチャンとして生きること

クリスチャンにとって生きるということは、神様から命を与えられた者として生きるということです。自らの人生を通してイエス様を証しし、いつも喜んで生きようではありませんか。神が生きよと言うならば、生きることに大胆であり、恥じたり悔いたりすることなく、精一杯生きて、私たちの存在を通してイエス様の素晴らしさを証ししていく者でありましょう。
そう願うなら、今日の癒しの礼拝の祈り方も、変わってくるでしょう。単に痛みや病から癒されることを求めるレベルではなく、大胆に生きるために元気にしてください!私が毎週教会に通い、賛美し、教会の兄弟姉妹たちと祈り合い、励まし合うことができるように癒してください、と祈ってまいりましょう。
クリスチャンとして大胆に生きるために、癒しを祈っていきましょう。兄弟姉妹、あなたがアフガニスタンに行く必要はないのですよ。私たちに与えられている神様のご計画は、人それぞれ異なるからです。ですが、私たちはキリストのしもべとして力強く生きていくためにも、完全に癒やされ、大胆に証しできる者とされるように祈ってまいりましょう。