主は待っておられる
イザヤ書30章18節~19節、ルカの福音書15章11節~24節
…主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
…またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。…ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。…そして彼らは祝宴を始めた。
1.主は待っておられる
主はあなたを待っておられます。私たちを恵もうと待っておられます。あの放蕩息子の帰りをずっと待ち続けていた父親のように、私たちの父なる神様は、私たちを待っておられます。放蕩息子が、もうほかにどこにも帰る場所がなくて、自分の帰るべき所は、お父さんの待つあの故郷の家、そこしかない、そこが自分の帰る場所だといって、父のもとに帰って行ったように、私たちも帰って行くのです。ここしかない、私の帰る所は、まことの神様のもと、イエス様のもと、そこしかないと帰って行くのです。
放蕩息子が帰ることができたのは、そこに待っている父がいたからです。私たちが今日も、神様のもとに、教会に帰って来ることができているのは、ここに私たちを待っておられる父なる神様がいらっしゃるからです。そして、まだ遠くにいる息子を、父親が走り寄って、抱きしめたように、私たちを待っておられる父なる神様は、私たちを抱きしめてくださるのです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、…その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)。主は私たちを待っておられ、私たちを抱きしめてくださるのです。それを知るとき、もう泣くことはないのです。恐れ、悲しむ必要は、もうないのです。
2.主は待ち望んでおられる
イザヤ書30章18節にある「待っておられ」という言葉と、「待ち望む」という言葉は、実は原文のヘブル語では同じ言葉が使われているのです。ですから、私たちが主を待ち望むように、主も私たちを待ち望んでおられるのです。息子の帰りを待ち望んでいた父親のように、私たちが主のもとに帰って来るのを、主は待ち望んでおられるのです。主のもとに帰るとは、悔い改めることです。神のかたち、神に似る者として造られた、本来の、あるべき姿に立ち返ることです。本来の神様との関係を取り戻すことです。神の子として主を愛することです。「父なる神様、私はあなたを愛します」、この一言を主は待ち望んでおられるのです。祈りの中で、日々告白しましょう。
主が待ち望んでおられることに気づいて、それに私たちが答えることができたとき、新しい扉が開かれるのです。それは、恵みの扉です。恵もうと待っておられる主が「わたしはそれを待っていた、その信仰を、その悔い改めを待っていた」といって恵みを注いでくださるのです。本当に主に信頼するとき、主は「その信仰を待っていた」と喜ばれ、神のわざが現わされるのです。私たちが本当に悔い改めるのを、主は待ち望んでおられて、天の多くの御使いと共に喜ばれるのです。こんな小さな私たちの信仰を、悔い改めを、主は、喜んで待ち望んでくださっているのです。こんなにも素晴らしい主を、だから私たちも待ち望むのです。「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は!」。
主のもとに、教会に来られるすべての人々が、「あなたを待っていたよ」という主の恵みと愛で抱きしめられて、「世にあっては患難がある」というすべての苦しみ悲しみが消えていくのです。もう泣くことはないのです。あの放蕩息子のように、主のふところに飛び込み、主にだきしめられて、私たちは生きていくのです。