もしもイースターがなかったら…

コリント人への手紙第一15章14節~20節

…キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

イースターの礼拝を感謝します。今日のイースター礼拝では、私たちの罪を全部背負い、罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエスが、お約束通り3日目に死の力を打ち破ってよみがえってくださったことを喜び合いたいと思います。死を打ち破る命を現された救い主がいる、そしてこの救い主が私たちと共にいる、だから私たちの命はイエスの命に与ってとこしえに生きることができる、主と共によみがえり、永遠の命の恵みに浴することができるのであります。このイースターの喜びの時には、私たちを苦しめる心の闇、罪穢(けが)れが取り除かれ、罪赦された私たちは神の子としていつまでも主と共に生きることができる、死の向こう側に広がる神の命のある永遠の恵みの世界があることを感謝しましょう。希望のある人生が与えられたイースターの恵みを忘れないようにしましょう。クリスチャンの頂くべきど真ん中の出来事、それがイースターなのです! 今日の聖書箇所から、私たちの心の中にはっきりと、イースター、キリストの復活に関わるメッセージを刻みつけたいと思います。そのきっかけとして、「もしイースターがなかったら」、「もし救い主キリストの死からの復活がなかったなら」と問いかけて三つの点からイースターの恵みを心に刻みつけましょう。

1.死に打ち勝つ恵み

「もしイースターがなかったら」、神の命を持たれたイエスが十字架で死んで、それで終わったのなら、イエスもただの人!ということになり、キリスト教は死に打ち勝つことのない宗教で終わったことでしょう。しかし、イエスは実際によみがえり、その主に出会った弟子たちが聖霊に満たされ全世界にキリスト教を伝道したからこそ、2000年後の今日、私たちもこのようにイースターの恵みに与っているのです。

2.聖書の教えの恵み

「もしイースターがなかったら」、聖書の教えは単なる道徳的な教えで終わってしまったことでしょう。しかし、キリスト教は、イースターがあったからこそ、私たちが新しく神の子として生まれ変わることができること、そして永遠の命を語ることができます。これが他の宗教の教えとは全く違う所なのです! 聖書は、私たちは神と共に永遠に命の世界に生ききることができる、という約束を教えているのです。

3.愛、希望、喜びの恵み

「もしイースターがなかったら」、私たちは悲しんで生きなければなりません。クリスチャンは辛いことがあっても必ず立ち直ることができます。痛みがあっても安らぎの時が来ると信じることができます。しかし、イースターがなければ、結局、最期は辛く悲しい死で人生を終えることになり、それが人生のゴールだとすれば、何と寂しいものでしょう。しかし、キリストは初穂としてよみがえってくださいました。その結果、それを信じる私たちも同じように神の御元で永遠に生きることができるようになったのです! クリスチャンたちはこの恵みを忘れないように、心に刻みつける習慣を作り上げました。週の初めの朝、よみがえりのイエスを礼拝し始め、日曜日に教会が礼拝の時を持つようになったのです。兄弟姉妹、私たちは日曜日が巡ってくるたびに、よみがえりの主イエスを思い起こし、その恵みと希望に感謝しましょう。