いのちのパンである主ご自身

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。    ヨハネの福音書6章32節~35節

今日は節分です。日本では、「豆まき」をしますが、豆をまいたくらいで悪魔を追い出すことは不可能です。この世では、私たちの喜びを奪い、悲しませ、落ち込ませたりして、人生をボロボロにしようとする悪の力が働いています。しかし、クリスチャンの私たちはなんと幸いでしょう。イエスの十字架の血で罪がきよめられ、いっさいの悪しきものから遠ざけられています。イエスを信じる信仰によって救われ、きよめられ、神の霊で満たされていることを感謝しましょう。そして、「清らかなもの、美しいもの、愛に満ちたもの」をクリスチャンとして証ししてまいりましょう。
今日は聖餐式の聖日です。聖餐式は、イエスが十字架にかかられた後2000年間、世界中で守られています。イエスの体と血を表すパンとぶどう酒をいただいて、私たちがイエスと一つであることを確認する大切な儀式ですが、単に儀式としてではなく、神からの豊かな恵みと祝福を体験し、心から喜んで聖餐に与りましょう。
4つの福音書の中でもヨハネの福音書は特に、イエスが、ご自分が何者であるかを明確に語っています。「わたしがいのちのパンです」と語られて、聖餐式とは何かをよりはっきりと私たちに教えられました。

1.天から与えられる「いのち」がある

食料は口から食べてエネルギーを得て、体を元気にして命をはぐくむものです。しかし、食料だけでなく、天の神から下ってきて私たちを生かし、いのちとなるパンが存在することを知らなくてはなりません。現代は食生活が豊かになり、「栄養」の内容にまで気を配ります。しかし、「霊的な栄養」が十分かどうかを忘れています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。私たちは、食料が豊かであれば幸せかというと必ずしもそうではありません。天からのいのちをしっかりいただきましょう。

2.天からの「いのち」はイエスご自身

「わたしがいのちのパンです」というイエスの言葉をしっかり認めましょう。イエスが単に立派な人で教えが素晴らしい、生き方が模範になるというだけでなく、イエスご自身がいのちのパンであり、イエスによって生かされているという点で、イエスはこの世の誰とも違います。他の宗教の教祖と同じ人間ではありません。イエスご自身をいただいてつながりを持ち、私たちは生きることができます。学んで修行して道徳的に良い人になることが目的ではなく、イエスと一つにされる、切っても切り離せない関係が大切です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

3.「飢えることも渇くこともない」との約束

人生の中で必要な助けがない、友がいない、心が虚しい、生きる望みがない、疲れ、絶望するということがなくて、いつも心が満たされ潤っている。これがイエスの恵みの約束です。人生のどんな悩みの中にあっても、キリストが共にいてくださり、必要を満たしてくださいます。主を信じる者には、神によってすべての必要が満たされることを信じましょう(マタイ6:31-33)。
聖餐式に与る瞬間に、病はいやされ経済は祝福され、弱い私たちが強められることを期待しましょう。